ある日の鏡の中の顔

日々の棚卸

 

鏡に映る自分の顔。

それが今日の題材です。

 

生まれてからこれまでの自分が写った写真。

この間アルバムをひっくり返して、

どれくらいあるかなと

見返してみたことがありました。

もちろん、ほとんどの写真は

あちこち移動する間に

どこかに行ってしまったのですが、

母の葬儀の折に、

彼女が大切に取っておいてくれたアルバムを

妹と折半して、

互いの家に持ち帰ったものを

あらためてじっくりと見てみたのです。

そこには、

私自身が生まれたての赤ん坊として、

父や母に抱かれていた頃から、

幼稚園、小学校、中学校と成長して、

家を離れるまでの間に撮られた、

私自身の姿や、

その時に暮らした町の、

学校や公園やお祭りの風景などが写った

幾種類もの写真がありました。

古い写真の中には

白い縁取りがあるものもあって

色合いもあせていたりして、

ちょっとした時間旅行だな、なんて

想いながら、時代を感じたものです。

 

実家で暮らされている方々の中には、

大量の写真が残っていらっしゃる方も

多いのではないかと思います。

 

もっとも、デジタル化が進み、

パソコンとデジタルカメラが広まって以降、

特に、スマートフォンが普及してからは

ほとんどの方が写した写真を印刷するよりも

ディスクやメモリなどの電子媒体に

保管することが増えたかもしれません。

お子さんの写真や、少し若い頃のご自身や

伴侶との写真を

ディスクにしまわれている方が

主流なのではないかと思います。

 

みなさんが、

そうやって撮られたご自分の写真を

アルバムやディスプレイで

最後に見返したのはいつ頃のことでしょうか。

 

スマホで自撮りするならともかく、

時代をさかのぼるほどに

写真は誰かに撮ってもらうことが

普通だったと思います。

いつも晴れやかに

笑っていられるわけではないけれど、

子供の頃や、

あるいはよほど特殊な事情でもなければ、

わざわざ仏頂面や泣き顔で写っていることは

あまりないのではないでしょうか。

中には、土色のきわめて不健康な顔色で

写っている、

なんて方もいるのかもしれませんが、

基本的には素敵な笑顔や、

そこそこ穏やかな顔をして

写っていると思います。

えっ、白黒で色までわからない?

じゃ、幸福がにじみ出ているような

そんな表情で写っている

と考えてください。

 

写真は誰かのカメラを意識して

写ったものですが、

当然ながら、

普段の表情は十人十色、様々で、

日々、私たちが無意識に選択する

行動の一つでもあります。

そこには、写真やあるいはビデオ動画ような

電子情報からはからはなかなか見抜けない

リアルな内面がありありと浮かんでいる、

そう感じます。

 

自分の中に湧き上がる感情が

例えどんな種類のものであったとしても

その出し方を間違えない限り、

責任を感じる必要はありません。

感情は、

その時の自分の状態によって湧き出してくる

生理現象のようなもので、

確かに人間ができた方なら

湧いてこないような、

あまりよろしくない情動もまた

湧いてくることが往々にしてありますが、

それを気にかけても仕方がありません。

 

さて、先に述べた感情の出し方の中に、

表情が含まれるとすれば、

いささか考えなければいけません。

表情が行動の一環ということであれば、

人前なら当然責任を伴うし、

一人の時に出る表情には

ある種の真実が含まれています。

 

こんな話をしたのは、

表情というものが

いかに当人の内面を雄弁に物語っているか

身をもって感じているからです。

 

父の自死の後数年、

眦吊り上げて働きました。

それ自体はさほど問題ではないのですが、

そのモチベーションと、

空回りと、憤りとで、

半ばやけくそになっていた割には

成果を出すことができていなかった

というのも事実です。

ただ、誰に言われるわけでもなく、

当時の上司を差し置いて土日も無給で出社し、

なんとしてでも

今抱えるテーマをモノにしようと

シャカリキに動いていました。

睡眠時間も一日4~5時間くらいで、

相変わらずジョギングも筋トレもして

といった具合に心身に負荷をかけていたので、

体は疲労困憊で、

なぜかいつも節々が痛くて、

それを毎晩お酒を飲んで紛らわせていて…。

 

こう書きながら、実際、

ずいぶんな生活をしていたなと

しみじみ思います。

父の自死と正面から向き合うことが

できていなかったのでしょう。

あまり何でも素直になればいいものでも

ないのでしょうが、

苦しいんだ、ということを自分に認めて

ちゃんと倒れて

引きこもって寝ていれば

また違った展開にもなったのでしょうが、

それができなかった。

もしそんなことをしてしまったら

あとはもう死ぬしかない……

そんなおかしな思い込みが父の死と合わせて

常に体を動かそうと駆り立て、

命が途切れる感覚に妙に襲われる日々が

続きました。

そうやって数年働いた後のある日、

燃え尽きかけた自分を鏡の中に見ました。

 

青年時代が終わろうとする頃でしたが、

その顔はもうある種のお年寄りのよう。

人に自慢できるような

御大層なルックスは持っておりませんが、

それにしても、

内面は息巻いたままの強がりが渦巻き、

外側はそんな内面とは似ても似つかぬ

ヨレヨレで、

こんな生き方をしていたら

これ以上もたないなと直感しました。

翌日、崩れるように有休を取得して

それから一週間寝込んだ記憶があります。

 

その時に誰にともなく。

「こりゃあかんわ」

さばけた言葉が感想となって、

勝手に口をついて出ていました。

あれが転機だったのでしょう。

 

まだ自分を取り戻すまでには

しばらく時間が必要でした。

 

それから数か月。

だいぶ良くなっただろうかと

相変わらず疲労が抜けない体と

重いままの心を抱えて

鏡をのぞき込むと、

そこに覗いたのは、

哀しさとも怒りとも卑屈ともつかない色が、

嵐が去った後に張り付いた無表情を象る

細胞の隙間から滲み出ている、

恢復とは程遠いイメージをした表情でした。

いわゆる典型的な“能面が張り付いた”、

というやつでしょうか。

 

あれから20年以上がたちました。

相変わらず華やかさとは無縁ではありますが

それなりにおじさん的な穏やかさは

多少持てているかな、と

勝手に自負しております。

 

表情は、自らの生き方の選択の結果

内面から生み出されてくるものです。

もちろん、日々笑顔を心がけるのは

素敵なことだとは思うけれど、

そればかりでは疲れてしまうでしょう。

 

自分の表情をじっくりと鏡で見て、

直感してみてください。

私は、四半世紀前のそんな表情から

今の状態になるまで

しばらく時間がかかってしまったけれど、

老いも若きも男も女も、

鏡を見て素直に、そして直感に従って

自そこから分の内面を見つめてあげれば、

きっとヒントが得られると思います。

 

自分らしく納得して、生きられていますか?

と問うた時

どんな答えが見えるでしょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『公園の丘から見た町の風景』

梅雨間の一枚。