Fake

日々の棚卸

Fake[feik] フェイク。

<訳>

偽り。ごまかし。××のふり。フェイント。偽物。嘘。贋作。でっちあげ。粉飾。だます。

インターネットから、らしき言葉を集めてきたら上記のようになりました。一部、falseとダブっている気もしますが、文脈から使い方、訳し方が決まってくるのしょうね。意味するところは、意識的、無意識的を問わず、あたかも真実を語っているかのようにみせる、価値があるように見せかける、という感じかな。いずれにしても、一般的にはあまり良い意味の響きではないようです。

 

心理カウンセリングは、様々な場面でクライアントを勇気づけ、エンパワーすることを目的としますが、自分に納得し、充実して生き生きと人生を生きていく上で、心理の知見だけで十分かと言えばそんなことはないように思います。個人として「私の記憶」とともに日常を生きている私たちは、国家という器に暮らし、資本主義という社会システムの中で活動し、戦争や平和という記憶を家族史の中に宿し、一国の政治によって生活を左右され、ニュースメディアによって印象を植え付けられ、といった幾重にも重なる流れの中にいるからです。日々、自身を悩ませる情動とモノの見方や受け止め方、捉え方、そして個々人の癖などを、専門的な知見と私自身のそれとを有機的にあわせて皆様に提示することで、新しい着眼、気づき、勇気を得ていただければと思うわけですが、不快な情動の元が前述の社会システムや政治など手の届かない部分に根差すケースでは、カウンセリングの知見で対応できる範囲では限界があるように感じらるときがあるのです。

私に限って言えば、心理カウンセリングとは、ある種の皮膚感覚に宿った情動や胸の疼き、内側から力が抜けていく調子、体の震えなど、情動の魔法で行き詰ってしまっている方々を解放させていただくこと、その人のこれからに有効に機能する新しい物差しを提供させていただくことだと考えています。この考えに沿うと、例えばカウンセラーが使う処方ワードを超えた知見、洞察が必要だと感じることが多々あることは先に述べたとおりです。心の領域は目に見えないため、お伝えすることを頭のみならず感覚としてどこまで腑に落とし込んでいただけるか、が大切で、それがうまくいかないと、言葉もテクニックも陳腐なものと化してしまう。それで済めばよいのですが、少しでも良くなってもらおうと必死になった結果が、フェイクになってしまうとしたらとても哀しいし無念です。

では、こう意見を書く私自身が果たしてそういう類、つまり先に例として挙げた通りの、洞察に富んだ専門家なのかと自問すれば、もちろん(という言葉を使ってしまうのが残念ですが)そんな存在には程遠い。ただ、程遠いからと言ってもそれなりに気づく部分はあるわけで、毎回そんなことを心の話に重ねて発信するよう心掛けるばかりです。

 

私たちが置かれている環境と問題の間には、大きく関係することがあります。

環境は、通常、家族史と結び付けられて語られるわけですが、家族は単独で存在しているわけではなく、さらに外側の影響を大きく受ける以上、家族だけを切り離して論ずるには限界があるのは容易に理解できると思います。

 

唐突ですが、江戸時代にはカウンセラーは存在していませんでした。

アホか、という言葉はちょっとだけ待ってくださいね。

 

あの時代、「個人」という人の単位は単に数の上の話であって、社会生活の単位はであり「共同体」でした。人という種を各文化圏で生きながらえさせるために、世界中が取っていた体制です。武士及び裕福な商人などであれば「家」という別の単位があったわけですが、少なくとも「個人」という単位は現在のようにそれ自体で自由に存在しているものではなかった。「個人」は常に、「共同体」を存続させるう上で評価される存在でしかないものでしたが、一方で、「個人」が果たせることも概して限定的であったため、別の角度から言えば、個々人への評価はのんびりしたものでした。もっとも、現在のようなセーフティネットなどありませんから、生きるという意味では現在よりよっぽど切実だったことは想像に難くありません。

さて、明治期に列強の進出により国民国家としての日本国が誕生します。

東大(の前身)は世界で初めて工学部を作りましたが、工業が一次産業以外の新しい職業として国中に広がり、都市に多くの人が流入しました。

家族と離れて暮らす人が増え、新しい生活が生まれたりもしましたが、ここでも何らかの形で各地域に根差した共同体が作られ、人々はその中で日常の生活を送りました。立身出世という言葉が表すように、出自に関係なく努力と運で社会を上に昇ることができるようになりだしていて、実際に自分自身でそうしたいと切に願う人のチャレンジが行われた一方で、庶民と呼ばれる私たちのような国民の多くは、日々食べることに必死になっていたわけです。もちろんここでもカウンセラーという存在はありませんでしたし、西洋医療を取り入れて発足したいわゆる「精神病院」と呼ばれる場所は現在のメンタルクリニックのような場所からは想像もつかない状態であったことはご存知の通りです。

1945年に日本が第2次大戦に敗戦、そこから復興が進みました。1985年のプラザ合意で世界最大の債権国になり、ジャパンマネーが世界を席巻、悪名や反感を交えて日本国の名前が世界中に伝わりました。

そして、1990年を過ぎたあたりで土地神話のバブルが崩壊、以降、失われた20年(30年)が過ぎて、昨年令和の時代を迎えました。

戦後、徐々に共同体が解体されていったのは、各時代にものごころがついていた方の記憶にあるところだと思いますが、それでも各都市ごとにどうにか生き残っていました。東京、横浜、名古屋、大阪など、大都市の中でも中枢部はともかく、家族が暮らすエリアでは、まだ町会やもう一つ細かい寄り合いが日常的に存在していたと思います。

今も町の中に共同体はあるところにはありますが、ある時期を境に明らかに見えづらくなっていった、つまり解体されていったと思います。これはいわゆる人のつながり自体が少なくとも求められにくくなったと言い換えてもいいでしょう。もともと、1980年前後から女性を中心に生きづらさを訴える人が目立つようになり、その後、カウンセリング、自助グループ、心療内科など、公的私的を問わず心の機関が誕生しました。このころ、国中が上昇志向に肯定的で、一億総中流はまだ崩れておらず、「頑張れば、何にでもなれる」という感覚を、特に上の世代ほど持っていたように思います。心の領域については、専門機関が種々立ち上げられましたが、まだ世間的に認知されているという状態ではありませんでした。並行して、子供たちが荒れ狂う問題が顕在化してきます。

そして、バブルが崩壊し、経済が沈滞化してしまうと、上昇志向は行き場を失い、結果を求めても達成できない人々があふれ、自信を喪失した人々がどんどん目立つようになりました。この間、一貫して減ることがなかったもの、あるいは増え続けたもの、それは心の問題で苦しむ(ことを認識した)人々の数とそれに対応する専門機関、そして経済共同体(という言葉はありませんが)としての会社の正社員を求める人々です。

共同体の弊害は何かといえば、もっとも弱い部分にしわ寄せがいくことで、これは他のあらゆる人の集合体と変わりありません。冷害などによる凶作で村の娘たちが売りに出された哀しい歴史などは、その最たるものです。中世ヨーロッパの魔女裁判は毛並みは異なりますが、男がつるし上げられることがなかったのは底流に同じ意味があったと疑うのは考えすぎでしょうか。

 

長々と近代史を共同体とその裏で求められるようになった心の問題にフォーカスしてお話しさせていただきました。きっと「専門家」の方々からすると、歴史という点からはあちこちご指摘いただく点があるかと思います。

ここで申し上げたいのは、そういった大まかな近代史が2020年になって、何を残しているか、ということです。

お金は大切。

自己実現。

一人一人が評価される社会。

各自の評価が家族内にまで持ち込まれている社会。

誰もが不安に閉じこもる社会。

承認欲求。

努力が報われる社会。

 

私自身が物心ついてからも、いろいろな価値観が言葉として語られました。

ですが、いつからこれらが正しいことになったのでしょうか。

そして、あたかも自分たちが求めていることになったのでしょうか。

これらは全て、ある大切なことで十分満たされた後に、追い求めることができる人が追い求めるものなのではないでしょうか。

 

Fake.

 

うろ覚えですが、ビートたけしさんの昔の詩集にこんな言葉があった記憶があります。

「人間、生まれて、生きて、死ぬ。これだけで十分すごい」

確か、路に落ちてた月という詩集で、騙されるな、が標題だったかな(間違っていたらごめんなさい)。

 

私はここまで達観できないけれど、かけがえのない自分を生きるベースの一つになると思います。なりたいもの、達成したいことが世間の価値基準である限り、余程根底から意識し、構造を理解しておかないと、この“Fake”に陥ります。

 

ご存知のように、米国の大統領がこの言葉を使って上り詰めた背景には、ニュースソースを中心とするメディアが築き上げたきれいごとの裏で、そこから取り残されても焦点をあててもらえない大多数の貧しい労働者の存在がありました。

「You’re Fake NEWS!」

と啖呵を切るおじさんのことはよく知りませんが、意図するところはよくわかります。

 

もう一度、今あなたを包んでいる価値観、あなたと大切な人々がどれほど幸せなのか、について振り返ってみてください。

もしかすると、手遅れにならないうちに大きく舵を切る必要がありませんか。

 

今回は表層をさらりと流して述べましたが、1回では書ききれないとても大きなテーマです。また回をあらためて述べさせていただきます。

 

くれぐれも、今の苦しみに騙されないように。

その苦しみ、ある価値観からきているわけでしょう?

歴史を紐解くと、案外特殊な状況にあるのかもしれませんよ。

でも、それらもまた自分を受け入れ、自分に寄り添って、自分自身として生きていこうとする中で気づくものかもしれません。