人生に安堵感を得るためにできること

日々の棚卸

 

20世紀の中盤から後半にかけて、

日本は経済成長が続きました。

 

その頃は良くも悪くも、

生計を立てる道筋が決まっていて、

 

スポーツ選手や芸術、芸能の道に

走るのでなければ、

 

あらかたは大学まで行って、

大企業に入って年金が出るまで働く、

という中で社会の評価があり、

 

各家庭での教育観もまた、

その基準を大なり小なり取り込み、

子供を育てていました。

 

今ほど個性もケアされてなければ、

そのことを疑う人も少なく、

 

護送船団方式とも呼ばれた

日本の企業社会の成長が末永く続き、

 

その中でいかに良い位置を占めるか、

それを“不足を感じる”多くの親達が

考えていました。

 

少なくとも、その社会の中では、

事実かどうかは別として、

 

頂点というものが見えていて

(わかっているように感じられて)

 

その頂点に向けてある程度のところまでは

全力で進んでいくことが

求められていました。

 

ちょうど今の現役世代の

両親や祖父母が家族を営んでいた頃の

話しです。

 

実際には、少なくない数の人が

自分を押し殺さざるを得ない日々に、

閉塞感と行き詰まりを感じていました。

 

閉塞感、行き詰まり感を感じる人の中には、

自分が思い通りに評価を得られないため、

という人もいれば、

 

うまくいっていても

家族内がいつも殺伐として、

安心や安全が得られないという人もいましたが

 

いずれにしても、様々な理由から

自分が安心・安全を感じられない人々が

感じていた感情だと思います。

 

振り返るに、

この頃に人生の安堵感を得ていた人とは、

概して社会の評価を得られていた人、

 

…とは限らなくて、

 

自分や子供の個性を受け入れ、

家族が醸成する愛着感や

自らの内に宿した原風景を感じ続け、

 

そこに幸せの本質があることを認め、

 

それらを保持し、感じ続けることを

最優先にし、その上で、

 

自分と大切な人々が生きていけるだけの

生活を維持することを心がけ、

 

時に歓び、

時に腹を立て、

時に落ち込み、

時に笑いながら、

 

できるだけ一緒に生きていた

人たちであったのかなと

あの時代を思い出すたび思います。

 

もちろん、社会的な評価を得た人でも

それなりの人生の安堵感を感じていた人は

おりましたが、

 

そこが優先順位の第1位ではなかった

ように感じる、ということです。

 

この振り返りが正しければ、

 

人生の安堵感は、

社会的な評価や位置とはほぼ無縁の世界で

決まっていたということになります。

 

 

資本主義の革新と発明によって

社会が成長し、利潤を得ていく過程では、

 

それまで共有していたものを

一人ひとりが持ちうるところまで

浸透させる状態が発生します。

 

必要ないところには必要ないはずの

状態なですが、

 

例えば、

居心地が良くない家にいたりすると、

 

居心地悪い人と共有しなくてもよいように

早く一人になって自分専用に共有したいと

思うようになります。

 

もちろんそんな理由ばかりではなく、

 

東京にあこがれて暮らし始めれば

必要なものは個人単位で家庭同等のものを

そろえる必要も出てくるわけで、

 

100年前なら限られた人にしか許されなかった

そんな活動を誰もがするようになると、

 

マインド的、物理的に、関係性が

細くなっていきます。

 

簡単に言うと、肉親や親しい人との関係が、

遠くなりやすい世の中になってきている、

ということになります。

 

大学に入って関東に出て、

一人暮らしをした身には、

 

そういった状況を批判する資格はなく、

(実際、批判するものでもありませんし)

 

そんな傾向の中でもつながりを保つ人は

たくさんいるという事実に、

勇気と安堵を見出すばかりと言えば

情けなく聞こえるかもしれません。

 

 

言いかえれば、以前より、

個人で心や魂を律せざるを得ない社会に

私たちは生きているように思います。

 

特に大多数の人が暮らす都市部では、

その傾向が強い。

 

同時に、そのことに悩んでいたり、

日々の生活に行き詰っている人は、

 

律したい心や魂を攻撃する過去(の解釈)を

体の中に生息させてしまっている場合が

少なくない。

 

救いがあるとすれば、

いつも申し上げるように、苦しいという事実が

そう感じさせるもう一つの基準を

体内に宿しているということ。

 

厄介なのは、その感覚が、

上述した攻撃を感じる光景の

すぐ横にあったりして

 

なかなか認めづらい場合がある、

ということでしょうか。

 

 

あなたが今、いくつかは関係ない、

とは言いません。

 

年齢によって、環境によって、

その時々の体調によって、

できることは異なるでしょう。

 

ただ、諦めて何もしない、では

せっかくの人生もったいない。

 

「どうしようもないんだ!」

「どう考えたって良い解が見当たらないんだ!」

と言う方もおられるかもしれません。

 

ただ、感じたことを認識し、考える

私たちの脳は、

ある特定の環境下である程度の時間をかけて

作られているので、

 

新しい価値を刷り込んでいかないと

少なくとも知らせ続けてあげないと、

 

どんな良いことが起こっても、

どれほど頑張って思考しても、

 

結局、先が見えなかったり、

怒りに囚われ続けたり、

自分を貶めるだけの

 

『いつもの』結論にいたり、

そこからしたくもない堂々巡りの迷路に

彷徨います。

 

そこから飛躍するために、

 

自分で自分を

時に褒め、

時に甘やかし、

時に包み込み、

時に勇気づけ、

時に寄り添い、

 

そして何より、そうする自分を

胡散臭さを乗り越えて認め続け、

そこに自分の新しい芯を得ることが、

 

本来の意味で

幸せを得、

安堵を得、

 

そして納得がいく人生を歩む、

ということだと私は思います。

 

ここまで書くと、私もまだ道半ばだな、と

思いますが…。

 

ともかくも、

これまでのあなたの人生に、

嘘はありませんでした。

 

嘘だと感じるのは、

あなたができる精一杯の仮面をかぶった

ということ、

 

それは紛うことなきあなたの一部で

格好悪かったかもしれないけれど、

恥ずかしがることはありません。

 

あなたは、あなたが

疑いもなくあなた自身であったことを

思い出せますか。

 

それは実は子供の頃でなくても

今だってあるかもしれません。

 

一人になって

静かな場所で

気がつくと自分の外につながっていること。

 

つながる先は人とは限りません。

風景かもしれないし、

匂いかもしれないし、

皮膚感覚かもしれません。

 

あなたが疑いもなくあなた自身であること。

疑いがないゆえに、

普段意識もせず気づいてないこと。

 

まずそれを知り、感じることから

始めてみませんか。

 

ー今回の表紙画像ー

『テナガエビの空揚げ』

近所の温排水が流れ込む川で取れたテナガエビを空揚げにしてみた。

今シーズン最後だな、きっと。

元はこんな感じ↑。

小さめのはサラダに。。。