私には
『好き』なメロディと
『好き』な物語があります。
「私にはない!」
たまにそんな方もいますよね。
でもちょっとだけ、
以下の話を聞いていってください。
まず、『好き』という言葉と感覚について。
『好き』という感覚は、
感情が麻痺していたり、
心が弱っていたり、
疲労が蓄積していたりすると、
明言することが難しい言葉だと思います。
まじめで正直で繊細で、
私のような人が陥りがちな状態です…(失礼;)。
ともかくも、
そう感じられなくなった経験があると、
『好き』という感覚を感じられたり、
『好き』と言えることは
とってもありがたいですよね。
その『好き』ですが、
自分の嗜好が世の中とあっていることもあれば
そうでないこともあるのは当然です。
そして、『好き』には、
大人になってから気づいたり、
大きな経験や喪失の後に気づいたり
するものも少なくありません。
もう少し正確に言えば、
『大切』という感覚と、
そう感じていた自分を取り戻すための
一体感をもたらす感覚を
そう呼んでいるのかもしれません。
とりあえずここでは『好き』としておきましょう。
で、その『好き』の対象のこと。
『好き』な男性or女性がいるなら
それはとても素敵なことだと思います。
え?
ちょっとドロドロしている?
そっか。
中にはそんな方もおられるのかも
知れないけれど…
では、そんな方も含めて、
少し記憶の中のメロディや物語について
お話しさせてください。
どちらも自分が生み出さない限りは、
それなりに世の中ひろまったものを
受け止めて気に入ったり
合わないと忘れていったり
するものです。
そうやって何十年か生きるうち、
お気に入りのリストができます。
今あなたの中には、
そんなお気に入りの
ラインナップはありますか?
昔はあったけど今はない?
もう枯れて久しい?
必要なければ、それでいいのです。
古い記憶を無理に取り出す必要はないし、
変に惑わされたりするくらいなら、
そんなことする必要もない。
今日こんな話をしたのは、
私がProfileにも記載させていただいている
原家族の問題に一応の決着がついた頃、
どうにも素の自分という存在の
浮遊感というか希薄さの感覚に
悩まされていたことがあったときのことに
触れたかったからです。
一応の自由は得たものの、
今の自分につながるこれまで道のりと
その過程の自分に自信が
未だ持てていなかったのですね。
そこに確固とした土台と骨格を築き、
美しい彩を添えてくれて、
もうワンステップ回復を進めてくれたのが
そんなメロディであり物語でした。
もしあなたが今、
生きる力を感じられず、
その源泉さえ見失っているなら、
少しばかり時間を取っていただいて、
そんな方角に目を向けてみてほしいのです。
例えば、
具体的に
どんなメロディか、
どんな物語か、
どんなジャンルで、
当時世の中にどんな受け入れられ方をしていたか、
そういったことは問いません。
ただ、忌憚なく思い出してみてください。
じっくり思い出そうとしなくても、
恥ずかしがらず、
誰かの目を気にせず、
時間を遡ってみてください。
あの頃の、
そこにいるのが当たり前だった自分。
いまだ世界の全貌を知らないあなたが、
当時のもっと小さな世界の中で、
でも何かを感じて生きていた自分。
その時あなたは、
一人で自転車に乗って
近所の本屋に漫画を買いに行ったのかもしれないし、
家族で地方をドライブして
いたかもしれないし、
両親の罵り合いの泥仕合に絶望を感じて、
街を彷徨っていたかもしれないし、
仲が良かった友達と一緒に、
出かけていくところだったかもしれない。
もう、それこそ無数と言っていい
様々なシーンが思い浮かぶでしょう。
その時、その頃、
そこにあったメロディは何でしょう。
そこで自然に感じていた物語は
どんな流れでどんな結末でしたか?
もう一度言います。
誰にも気兼ねなく、
恥ずかしがらず、
何より、思い出そうとする自分を
男らしくない、大人っぽくないと
否定批判したりせず、
ただ、思い出してみてください。
そうやって胸の奥に去来したラインナップは
自分でそろえたものだから、
あなたのこれまでが滲んでいるはず。
それは自分そのもの。
それは自分の一部。
その頃には気にも留めていなかったけれど、
街を歩くと流れていたメロディや、
教室で噂になっていたドラマや、
何気なく手に取って読んでいた物語が
記憶の奥に眠っているかもしれません。
私は部屋の整理が苦手で
(というか整理しようという意思があまりないので…)、
本やCD(!)が部屋の隅に山積みになっている
万年スペースがあったりするのですが…
先日、なぜか慣れない掃除を敢行しようと
いきんでしまったところ、
そんな山積みにしていた本の束の一つを
ドサッと崩してしまいました。
アレっと思う間に
崩れた山の中から懐かしいCDを
拾い上げました。
引っ越す前に持ってきた、
1980年代(!)のお気に入りの1枚のはずだったのですが、
今はiPodのプレイリストに収録して聴けるので、
CDの方は放置したまま
どこかにいってしまっていたのです。
それがこの話を書く発端にもなったのですが、
同じようにして、
日々の生活の中に埋もれてしまっている
メロディや物語が
あなたの心の中にもあるのではないでしょうか。
あの時はきづかなかったけれど、
今そのメロディを耳にすると、
今その物語を臨場的に感じると
自分は自分として生きてきたんだ、
という感覚と、
その時代に自分が存在していた
という当たり前とが、
今のあなたを勇気づけてくれるのでは
ないでしょうか。
この意味するところは、
子供の頃に経験した、
母から触れられたり、
大切な友達と会っていたりした時の
懐かしい愛着感です。
誤解を恐れず言えば、
昨今よく耳にするようになった
様々に発露している心身症の根っこには、
この愛着感の喪失の故の部分が
あると思うのです。
現在の問題は、
現在の生活の中で試行錯誤して
対処していきます。
それはある種とても正常な営みです。
しかし、過去の出来事が自分を襲ってきて、
日々の生活が混乱している時、
その場面をカウンセリングやメンタルクリニックで
治療して一段落した後に、
おそらくは胸の中に、
それまでとは異なる空白とも塊ともとれる
感覚を感じるようになることがあります。
人によってはそれを、
心の重石と呼んだりします。
その中には実は、
あなたそのものである感覚が
閉ざされたままあって、
あなたに触れられるのを待っています。
そのキーが、
そのパスワードが、
あなたの感覚の中にだけ眠っている、
メロディだったり
物語だったりすることがあるのです。
☆
何十年も前に流行っていた、
とあるアイドルの歌。
尖りに尖っていた当時の私にとって
あまりに、
軽すぎて、
陽気すぎて、
センチすぎて、
甘すぎて、
嘘くさくて、
現実と異なっていて、
相容れないと感じていた、
世の中を席巻したヒット曲。
家族が地方に暮らしていた頃、
田舎をドライブしたときに、
車のラジオからも街の商店街からも
何度も流れてきた曲。
それが、一度は遠ざけた
原家族と自分を受け入れた後の空白に
ふわりと降りてきて、
自分は確かにそこにいて、
生きていたのだと感じられた時でした。
もう一つだけ。
今は読まれているのか知らないけれど
古い推理小説のこと。
先日街の図書館に行った折、
子供用の棚に見かけた時に思い出したこと。
推理小説が『好き』だった小学生の私は
学校の図書館に揃っていなかった、
そのシリーズの1冊を借りに、
街の中心にあった市立図書館まで
その本を求めて冬の暗くなりかけた通りを
バスに揺られて出かけていました。
ぼんやりとしたワクワク感と、
道を走るバスに揺られて大人たちの中で一人ぼっちという寂しさ、
そして帰って炬燵に入って読んでいるうちに
眠ってしまったこと。
私は確かにその時、
疑いようもなくそこにいたし、
そこにいることが当然でした。
何だ、
自分を形作っている中には、
そんな“たいした”こともあったんだ。
気にしなくていいんだ。
前を向いて歩いていけばいいんだ。
そう感じられる時が、そうやっていっぱい
積み重なって今があります。
そんなことをお伝えしたくて、
拙い文章を書いてしまいました。
このお話は、また別に機会を取って
もう一度させていただこうと思います。
ー今回の表紙画像ー
『荒崎の磯より』
春一番が吹き荒れる三浦半島に行ってきた…。まいった。。。
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