0.幸せの形は多様?
今世紀に入った頃から、
ダイバーシティと言う言葉が、
多様性と訳されて世の中に浸透しました。
少数民族や
LGBTといったマイノリティや
身体障害者の方々が、
いわゆる一般とされる人々と共生しながら、
その人ごとの価値観を大切に生きることの
必要性を含んで受け止められるようになった、
と、私は考えています。
一方で、この、
ダイバーシティの概念が浸透する
ずっと以前から、
多くの人が個々の価値観に沿って
多様な形の幸せを追求する社会が
到来しています。
例えば、
Youtuberだったり、
e-Sportsだったりといった、
電子ネットワークの世界に基礎を置いた
新しい形の働き方というか
収入の得方が広まっていて、
おそらくこれからも、
今は夢物語に感じるようなことが
ごく当たり前になってくるでしょう。
バーチャルリアリティ(VR)は
ずいぶん昔から研究が行われていて、
それとリンクする部分もあると思いますが、
3次元ホログラフィ技術などは、
私の在学中にはすでに、
研究テーマと扱われていました。
現在、ZOOM等で、
ディスプレイを通した2次元の映像対話が
おこなわれていますが、
3次元映像技術が安価に実現できれば、
そして5Gか6Gかわかりませんが、
大容量データが無線を介して
瞬時かつ無尽蔵に行き来できる程度に
ネットワークが太くなれば、
あたかもその場で人と接しているような、
今より臨場感を伴ったコミュニケーションが
可能になると思います。
良きつけ悪しきにつけ
様々な働き方や楽しみ方が
想像できてしまいます。
要するにこれからも、
予測を超えた新しい働き方や生き方が
目の前に現れることだけは間違いない
ということです。
一方で、最小限の収入を得て
シェアハウスでのんびり暮らしたり、
半分ニートのような生活を送る高学歴の方々が、
忘れた頃に本やメディアで取り上げられるなど、
一定の人気があるようです。
…と、働き方を例に挙げつつ、
多様性について述べてみましたが、
個々人が多様な価値観を追う社会に
生きているにもかかわらず、
世の中の多くの人は今も、
20世紀のパラダイムの中で
生きているようにも思えます。
・良い高校、良い大学を出て、
・一流企業に入って、
・高給をとって、
・世の中が認める名声をそれとなく得て、
・ちょっと立派な家を建てて住んで、
・それらを安定的に実現できて、
・同じ位置にいる相手と結ばれて、
・子供にも勉強をさせて、
・自分と同じような高偏差値の学校にやって、
……。
1.安定を求めて混乱に陥った
前節で20世紀のパラダイムと称したことは、
とうに廃れたのではないかと
考えている人は少なくありません。
しかし、現実には今も多くの人が、
自分の気質や向き不向き、
大切にしたい価値観に優先させて、
この道を半ば強制的に選択することを
繰り返している、と私は考えています。
批判ではありません。
心理学の考え方では、
人は必要のないことはしないことが
わかっているからです。
ですが、その中に大きな勘違いが
含まれていたりするから、
ややこしくなっているのも事実です。
有名なマズローの5段階欲求説は解のとおりです。
(6段階説もありますがここでは置いておきます)。
自己実現の欲求
承認の欲求
社会的欲求
安全の欲求
生存の欲求
下に行くほど個や種の保存に必要な
根源的な欲求で、
上に行くほど高次の欲求とされます。
確かに、自分の命が保てなかったり
(食料がない、雨露が凌げない)、
命が脅かされたり、
種がつなげない、
といった状態が解消されないまま、
高次の欲求に向かうことは
なかなか考えづらいですよね。
現在に続く共同体的な企業の原型は
第2次大戦直後まで遡るとすると、
その時代に生まれ育った父母世代は、
戦争の影響で感じられなかった
生存と安全の感覚を
少しでも安定的に実現しようとして、
暗黙のコンセンサスのもとに
共同体的な会社組織を作り上げた
側面があると考えることができます。
生存と安全を担保する共同体。
本当にそうであるかはさておき、
頑張れば成功する(と思い込める)社会が
出来上がりました。
そして現在、
日本全体の8割を超える労働者が
サラリーパーソンであるという
社会になっています
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/06/dl/1-1c.pdf
誰もが少しでも良い労働条件を求めるのは
おかしなことではありません。
ですが、こと会社勤めは、
おそらく既に良い条件ではなくなっている、
と私は思っています。
少なくとも、継続的に勤め人として
会社で働き続けることが、
以前そうであったような
“安定”を描くことができる場所である、
というのはそれこそ勘違いだと思います。
その勘違いを一言で言えば、
生存と安定のために皆で作り上げた場所が、
承認欲求の場にすり替わってしまった、
ということではないでしょうか。
生存と安全の確保が今も行われていない、
という心持ちのまま、
挑戦したり逸脱したりすることを
極端に恐れつつ、
良い学校→優良企業、というストーリーを
信仰のごとく今も追い求めている。
そこには大きな落とし穴があると思うのです。
安定、安全、生存を追い求めていながら、
いつしか家族はバラバラになり、
人を信じられなくなり、
孤立したり引きこもったり、
孤独死や自死が定常的に
起こっている。
私には、この二つのこと、
つまりこの、極端なまでに偏った
“良い条件”である企業で勤めることを
追い求める風潮と
孤立、孤独、自死、といった
社会の一側面はつながっているように
思えて仕方がありません。
万人に当てはまる理屈ではないことは
承知しているつもりです。
ただ、組織と言う集団の安定と安全が
第一に考えられるのが利潤団体である以上、
そのために幾ばくかの心の安全や安定が
削られているのは当然と言えば当然で、
そこに不向きだったり、
気質が合わないまま居続けたり、
する人の中には、
心が病んでしまったり、
優先順位を間違えて
大切なはずの身近な人々との間に
取り返しのつかない溝を
作り上げてしまうことが起きても
不思議ではありません。
昔なら、他に働く場所がない、
大きな会社に入って高給がもらえる、
自尊心を満たせる、
ということが、
安定安全の確保と相まって
そこにいるモチベーションにもなっていた
ということもあったでしょう。
戦争の名残もあって、
無茶な働き方が当然の風潮もあったでしょう。
今はおそらくそれらのどれもがありません。
そこに勤めるプライドを持とうにも
そんな時代じゃないから、と
どこか馬鹿らしい感じもしてしまう。
食べていくだけなら何とでもなる社会もあるし
セーフティネットもある。
入社前に謳われていた束縛時間や業務内容は、
実質利潤団体としての会社の都合が
優先されていることに気づき、
自己実現の場ではないことにも気づく。
…そんな中、私はと言えば…
衝突を繰り返す父母を仲裁する日々を送り、
同時に、
大学を出ていないが故に達せられなかったと
彼らが信じる自尊心を満たす代用となるべく、
典型的な学歴社会を目指していました。
そして、何とかその端っこにたどり着き、
私が家を離れた後、
父母は互いを後戻りできないところまで傷つけあい、
父は自らこの世を去り、
母は壊れました。
2.混乱を超えた大きな世界の理解を求めた
最初は何が起こったのかわからず、
頭がおかしくなりそうでした。
体の感覚がうまくつかめず、
感情がパニックを起こしていました。
自分の置かれた状態を何とか知り、
家族が壊れた理由を理解しようと
躍起になっていました。
残念ながら、
どこかに納得のいく理屈見当たらず、
大学の学問にもヒント見出せませんでした。
心療内科や精神医療を疑っていたので
病院に行くという発想はかけらもないまま、
極度に気落ちした私を友人が
大学の医務室に連れて行って
くれたこともあります。
そこでは、年配の医師から
「あなた、ちょっと本当に顔色がよくないよ」
と一言告げられただけでした。
ただただ、自分を取り巻く世界を
理解することを試みるしか思いつかず、
手あたり次第、かじりつくように
理屈を求め続ける日々が続きました。
それが、
世界史であり、
日本史であり、
戦争史であり、
経済史であり、
文化比較であり、
日本論であり、
……。
多くのことを学び、とても有益だったと思います。
でも、個人の混乱は胸の中に渦巻いたままで、
それが落ち着き始めたのは、
家族史、家族伝搬、嗜癖といった概念を
心理学とともに理解しだした頃からです。
3.答えはいつも核心にあった
自分に起こった哀しい出来事は、
よくあることだと考えるようになった
時期がありました。
遅まきながら、メンタルクリニックや
心療内科に通うようになり、
そこで耳にした様々なクライアントの話は
自分の過去を陳腐に思わせるほど
ひどい内容のものもあったからです。
たいしたことはない。
物語の世界ならよくあることだ。
そう言い聞かせました。
何を感傷に浸ってるんだ、と
自分をたしなめたこともありました。
本当におかしな考え方をしていたものですが、
心理カウンセラーの資格を取り、
苦しんでいる方の話に耳を傾ける中で
自分の中にあった歪みに
ようやく気付いたこともありました。
しかし、心の中には空白めいた何かが
いつもありました。
あるいは心の重石のようなもの。
とても息苦しく、
ドンと重々しく、
生き生きとした感情が
どうにも湧いてこない。
それはこれからの自分に
定められたものなのかと
あきらめかけていたある日のことでした。
古いアルバムを見た時、
何かが心の琴線に触れました。
自分の核心にある何かです。
わざと遠ざけていた、
見ないようにしていた過去の現実、
焦点を当てないようにしていた側面、
凍り付いたままの感覚、
本当は自分が求めてやまない感覚を
目の当たりにして、
逃げることができなくなっていました。
4.できることは自分自身を生きること
自分の存在は、それ自体が誰かのためにある。
自分ができることで、
誰かを良くしようとする前に、
自分を幸せにした余剰が、
人を幸せにする特効薬となることを
皮膚感覚で感じ取った時でした。
最初の方に書いた通り、
今世紀に入って心を病む人々が
若い人を中心に顕在化してきました。
それを甘えとか卑怯などと言って
片付けてしまおうとする、
救いようのない馬鹿者が一定数います。
そうなること、つまり
心を病み、鬱や適応障害で休職し、
引きこもるのは、
あまりに当たり前の結果だと思うのです。
そこで生きること、
働くことによって、
自分がそうする使命感も、
心の底から大切な人を救うのだと
腹の底から湧き上がる利他の感覚も、
ここで働くことで給料もらえるんだ
という楽しみの感覚もなければ、
自分はこんないい大学出て
こんないい会社にいるんだという
歪んだ誇りも、
会社を食い物にしてでものし上がって
もっと高級取ってやるという野望も、
会社を利用して世の中に
自分の考えを具現化するんだという
具体的な構想もない。
そもそもそうやって生きることなど、
教わっていないどころか、
上述のいくつかは、
下品で遠ざけるべき感覚と
暗に教え込まれている方が
苦しんでいる人の大半です。
ただ、食いっぱぐれないよう
頑張っているだけだと言っても、
自分の無意識は
もうそんなところでは焦っていないから、
それを理由に頑張って仕事をすることなんて
体が受け付けないのは
ごくごく自然の摂理というもの。
ではそれに代わる高次の欲求は、
その場所にはもうなくて、
それを半ば気づきながら、
そこに居続けるが故に心が病んでしまう。
自分を大切に、
あらゆる自分を受け入れて、
自分の素の感覚のままに、
自分が望む生き方を、
世の中の形にとらわれずに選択し、
あるいは創り出していく時代なんです。
少なくとも、それを無茶をせず
試すことができる世の中がきています。
安定は幻想。
特に職業の安定は。
心がどうしようもなく不安定になるのが、
生存と安全をある程度実現した社会で
企業勤めすることの弊害として起こります。
全ての企業とは言いません。
でも多くの会社で起こっていることの
理由の一つです。
決して、会社が悪いわけじゃない。
ただ、会社と言うあり方自体が
先進社会では
すでに古くなりつつあるのも事実です。
資本主義は身分制を脱して
国民国家を要請する気運によって登場し、
産業革命もその気運の中でおこりました。
今、とても大きなパラダイム転換期にいると、
多くの偉い人が言っているけれど、
それは、『個々人が個々人の個性を
いかんなく発揮する社会の必要性
=私たちの潜在的な想い』が、
『組織に属さなくてもある程度なら
豊かに生きていける
=自分の心を殺さなくてもよい社会』を
現実のものにしようとしています。
後はいかに、大切な人々との絆を失わずに
変化していけるか。
これは有名なドラッカーさんが
私たちの国に問いかけた課題でもあります。
最後は少し大きな話になってしまいましたが、
それほどに大きな変化の中で、
私たち一人一人がこれまでよりも
ずっと自分を大切にしながら、
かつ生きていける方法を
模索する時代にいるのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『近所の通りから見上げたお月様』
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