未来が変化する兆し

日々の棚卸

私たちは日々変化している。

体の細胞は2週間あれば入れ替わるというし、おじさんになって随分代謝と瞬発力と回復力が衰え、それと関係あるのかわからないが多少は人間が丸くなった気がする。人は間違いなく変わっていく。

もっとも、これらは誰しもに当てはまる生理現象的な変化のことだが、かといって認識=ものの見方・受け止め方の変化や、感情=過去の怒りや哀しみ・未来への予感の変化と無縁なわけではない。自分がどんな心持ちであるのかはともかく私たちの体はきちんと生きていて、引きこもろうが、喧嘩していようが、のんべんだらりとしていようが、常に代謝を繰り返すことで変化し続けている。生きているということは、それほどに希望を内包している。

 

家族のことがあってから本格的にこの世界に足を踏み入れ、自分の内面と向き合う日々を過ごすうち、少しずついろいろなことが変わっていった。一番の変化はもちろん自分という人間と過去に対する認識だが、自分が変化するということは世界が変化することと同じで、自分を取り巻く変化は多岐に渡り、時にはこんなことがあるのだな、と感動することもあった。

一番、そして決定的に変わったことは、バラバラになり、もう二度と蘇らないと打ちひしがれていた魂に、時間も空間も超えていくつもの想いが融合してもう一度一体感をもたらしてくれたことだ。おそらく生きていく上でそれ以外の出来事はおまけのようなもので、望むと望まざるとにかかわらずある種の結果としてあらわれたものなのだと思う。

変化の一例をあげると・・・、

カウンセラーの資格を取り、

母と再会し、

勤め先で出世し、

発信を始め

休みをボケっと過ごしたくなくなり

人と話すことが楽しくなり

独りの時間をずっと楽しめるようになり

趣味に没頭するようになり

飲酒量が減り

船舶免許が欲しくなり

音信不通の親しかった友人達と再会し、

思わぬ場所で新しい仲間ができ、

漠然と描いていた新しいことに挑戦し、

自分をこの世に送り出してくれた親のかけがえのなさを感じ、

今生きていることとに感謝の念がわき、

求める未来を描き、

そこに向かって歩いて行けるようになった。

さらりと述べさせていただいたつもりだが、他にもまだまだある。

もちろん、これらの出来事が正しいと言っているわけではない。仕事上の出世は往々にして自己の充実とつながらないし、求め方を間違えれば悪影響ばかり生じることもある。今まで趣味だと思っていたものへの思いが急に冷めて仕事に没頭しだすことだってあるだろうし、休みをまったりと過ごすことに魅力を感じてそんな行動をとることがあったっていい。ただ、個人的にもたらされた結果の中には、例えば音信不通だった友人たちとの20年ぶりの再会や、新しい仲間との出会いなんかがあって、それが虚ろだった過去の時間を一つずつ埋めて行ってくれた。うまく理屈で説明はできないが、自分自身との関係の変化がもたらしてくれた思し召しのような出来事だと感じている。

繰り返すが自分の一体感を再獲得したことを除けば、先に述べたことは付録のようなものだ。それと前後して、どのような結果が生じるかは個々人で全く異なると思う。

よくある勘違いは、良い未来を創るためにひたすら先ばかり見ることだ。単に切羽詰まったとかいうのであればともかく、自分を否定したまま、どこまで本音か怪しい未来をあたかも望んでいるかの如く設定して追い求めるということは、液状化現象でグダグダに揺れ続け、崩れ続けている地面を走り続けるようなものだ。正しい方向に進んでいるのかわからず、まともに前に進まないどころか、割けた地面の隙間に落ちていきかねない。

変化の兆しは、自分との対話を続ける日々に訪れるものだ。先ばかり見て、あるいは自分をいたぶってばかりいる不安定な状態(当人が望んでいるなら別だがそんな奇特な人もいないだろう)にあるのなら、今一度自分の内面を見つめ直してほしい。そして、

遠ざけていた自分とつながり直した時、

これまで生きてきた過去がどれほど大切であるかを理解したとき、

追い縋ってくる過去を適切な場所に戻すことができた時、

未来のベクトルの方向はゆっくりと変化していくのだ。

 

私もまたそうやって自分なりに変化していき、死が訪れるまでの旅の途中でここを訪れてくださった皆さまと出会った。いろんなことをあきらめかけたときもあったが、人間放っておいてもいつかはこの世からいなくなるのだから、と思えば何とか生きようとするものだ。だいたい、悪いことなど何もしていないのだから、ほんとは弱り果てるほど自分を追い込むなんておかしいことは頭の中ではわかっているつもりだったのだけど。まあ、そうやって気が付けば、いい年して何だか愉快な日々を送れるようになっている。だから、佐賀のがばいばあちゃんのように、「人生は死ぬまでの暇つぶし」とまで達観はできないが、時々勝手にあの世に逝ってしまった父母に愚痴りたくなる時はある。

 

かすかではあるかもしれないが、未来の変化には兆しがある。向かう方向を変えるきっかけだ。無意識が気づく直観のようなものだ。立て続けに起こるか、地味にぽつぽつと積み重なるかは人それぞれだ。あきらめかけた時があったとしても、息も途切れとぎれで進んでいたとしても、哀しい出来事、苦しい日常を何とか生き抜こうと試行錯誤し、一歩踏み出すことを繰り返す中に生じる自分自身の変化は、時と空気を経て伝搬する。

湖面に投じた一粒の石ころが生じさせるささやかな波紋が無限に広まっていく様を想像してほしい。自分にはコントロールできないところで、そうやって皆が自分自身を解き放ち続けているのだ。変化は、能動的に起こせる人もいるし、結果としてそうせざるを得ないから行動した人もいる。

私もまたそうやって今この場にいる。

独り関東に出てきて、

家族がバラバラになって、

恋人とと別れて

父が自ら逝ってしまって

妹が後を追おうとして

と哀しい話は尽きないが、

時に胸が張り裂けそうになりながら、あるいは心を麻痺させてしまいながら、それでもなんだかんだと手探りで生きてくるうち、

考えてもみなかった場所にいて

考えてもみなかった方向に向けて動いていて、

考えてもみなかった心持になっている。

 

未来というとすぐ結果を当てはめる人がいる。そんなセミナーも多い。否定はしないが、それは正直なところ杜撰に感じられる。よく言われるように、未来は現在の積み重ねだ。そして現在は過去の積み重ねだ。

現在は変えていけるが過去の出来事そのものは変えられない。

ただ、過去の良き部分を取り出し、悪しき部分は自分なりに昇華させて現在を構築しなおしていけば、現在は必然的に変わらざるを得なくなるし、それは未来に変化を生じさせることと同じだ。兆しとはある種の洞察の過程で訪れる瞬きのようなものだ。自分自身の力を受け入れている分だけ、変化は大きくなる。誰の目の前でも瞬いているはずだが、そういうわけだから、気づけない人もままいる。

生きる旅の途中の最も親しい自分をいつも見ていてあげよう。

あなたの大切な未来に向けて、しっかりと足場を踏み固めて歩いていけますように。