幻想、ファンタジー。今見聞きしているはずのリアルな世界を、幻想と呼ぶことに抵抗のある人がどれだけいるだろうか。しかし、現実を見るとこう解釈する方が逆説的に筋が通る。幻想という言葉に抵抗があるなら、物語と言ってもいい。比喩ではない。生きていくうえで、とても大切な認識だ。
東北大震災という未曽有の天災があった3月11日の金曜日、私はたまたま熱を出して自宅で寝込んでいた。少しばかり忙しい日々が続いたので、たまにはいいかとまったりとしていたところだった。あの時間、突然ぐらりと部屋が揺れ、すぐにテレビをつけた後「これは小さくないぞ」と感じた。揺れはそのくらい強く、起き上がって机の端につかまりながら、「建物崩れたら寝間着姿で外に出ちまうな」と朦朧とした頭で的外れなことを考えていた。
後日、映像で流れてきた光景はおよそ自分が暮らす国で起きている出来事とは思えない、想像を絶したものだった。海水が押し寄せ、家や車が流されていく様は、ハリ〇ッドのSF映画の1シーンを彷彿させた。だが、既に揺れが収まり、日常が戻った生活でテレビ越しに見たそれらの映像は、すでに遠い地の出来事になっていた。
後日、多くの人命が失われたこと、何よりその失われ方を耳にすると、突然肉親を失ったときに感じた世界との断絶感と、圧倒的な質量の水に抵抗できずに飲み込まれ、呼吸ができない自分を想像して、息苦しさ、そして世界が遠のいていく感覚を同時に感じた。いろいろな家と家族があり、ドラマがあり、喜びや悲しみがあっただろう。亡くなられた方、大切な人々を失った方は、本当に無念だった思うし、捧げる言葉が見つからない。
あれから8年以上の歳月が過ぎた。暮らす場所の選択への少なからぬ影響はあるが、個人的にあの時のような大規模な天災への対策をしているわけではない。東京湾岸を見渡せば多くのマンションが林立し、多数の方がそこに暮らしている。もうあのような天災は来ないと考えているのか、来ても何とかなると思っているのか、あきらめているのか、気にしてないのかはわからない。それでも想像できないということはないと思うし、仮にあのクラスの天災が起こる日時が公的機関で明言されれば、間違いなく湾岸の人口密度は低下する。地面は揺れない、少なくとも自分の日常にとんでもない影響を及ぼすほどには揺れることは、“まず、ないだろう”、そんな漠としたものをある種の諦念と併せ持っているのかもしれない。少なくとも自分に限ってはそんな気がしているし、その方が精神衛生上都合がいい。幻想と、幻想が破られることを想定した諦念を併せ持ないと、生きづらい。
人がただの動物なら、個体の保持と、種の保存として交尾し、生まれた子供の体を一つの成人した個体にさせることを考えればよい(考えてはいないかもしれないけど)。もちろんそこには彼らなりの愛情が存在しているんだろうが、話の都合上言及しない。
思考能力と心とを持った(ことを認識した)後、紆余曲折を経て、人は人間独自の社会的な仕組みを作ってきた。ここ数世紀の間に確立した近代国家、政府、学校、資本主義社会などは、それらがなければ即、生命体としての人が危機に陥るわけではない。ではなぜこんなものを作ったのかと言えば、うまく機能しているかは別として、自分と大切な人々とが「健康」で「長く」「幸せ」で「豊か」に生きるため(のはず)だ。最近はパラダイムシフトなる変化の兆しが随所に見られる一方で、今のところこれより優れた仕組みを人類が用意できていないというのもあってか、こういった仕組みが実際に自分たちの人生に(強制性も含めて)必要だという思い込みのもとで多くの人は日々暮らしているのもまた事実だ。
これらは、何かの論理に則って導き出された仕組みというより、作られた時代の勢いとか、ニーズが作りだしたもので、そこに携わる人のあり方次第で良くも悪くもなる。当然、一部の弊害では済まない悪影響ばかりを生み出すことだってなくはない。
それでも私たちは、この仕組みが最良と受け止めて、この中で数々の「こうあるべき」を実現しようとしながら人生を思い描いている。チャーチルに言及すると話が大きくなってしまうが、「資本主義は最悪のシステムだ、しかしこれ以上のシステムは存在しない(人類は生み出していない)」も同じだ。ある与えられた制限があって、しかしその中には無数の生き様が想定されて、その中で私たちは悲喜こもごもの日々を送り、ある人は幸せに見え、ある人は不幸のどん底を憂えている。
これをして幻想と呼ぶことに違和感は、少なくとも私にはない。
繰り返すが、幻想は私たちが生きていくうえで欠かせない大切なものだ。このブログでは、幻想をとことんまで肯定する。いやいや、それは幻想じゃなくて機能だから、という方がいれば、それは物事をあまりに一側面のみから語っているに過ぎない。機能は保証を求めるが、幻想は想いを叶える希望なのだ。機能は人が幸せになるお膳立てではあるが、それを有効に活用するうえである種の世界観に基づいた想いは欠かせない。
伝統や人の関係性なども新しい時代に合わせてその形態を変化させてきたし、家族もまたそのあり方を変えてきた。だが、これらの仕組みが生き残ってきたということは、それが私たちが求める生=「健康」で「長く」「幸せ」で「豊か」にいきること、を得る上で欠かせないと感じていることに他ならないと思う。感じている、思っているわけで、論理的な根拠はない。でも、これらは必要だし、あってほしいと感じているのだ。もちろん私もそうであってほしいと願っている。
だから、私たちが求める生に必要として用意したこれらの仕組みが、自分の存在を消してしまうことを求めるとするならば、これは明らかにおかしい。思い描く構成がおかしいのか、解釈がおかしいのかはともかく、自分の幸せに寄与するために描いた幻想が描いた人自身を消してしまうなら、どこかに異常があることは間違いない。その一つとして、自分を無価値として、そこにいてはいけない存在として扱うなら、それは幻想が破綻していることになる。だって、自分が幸せを望んだ世界で、自分の存在を貶め、場合によっては消してしまおうなんて、明らかに矛盾している。
からくりは、2つある。1つは、物語の登場人物、なかんずく主人公の解釈を履き違えていること。もう1つは、幸せのために描いた幻想を存続させること自体が自己目的化してしまったことだ。
その根っこに、自らのかけがえのなさを見失い、なかったことにしていることがある。
言えることはいろいろあるが、ここにつきる。
良いことが起こるか、悪いことが起こるかは自分で決められるとは限らない。だが、自分が何をどう思い、どう受け止め、どう行動するか、で、世界の反応が変わるのは、Gベイトソンの存在論と認識論を待たずとも明白だ。全く同じ景色を見、同じ人と話し、同じものを食べ、同じ情報を仕入れても、人によって解釈もその後の行動も異なる。そして、これらは自分が自分をどう受け止めるか、で無意識に決まっていくものである。これは、私たちが普段から思い描く世界の中に生きていることに他ならないではないか。
中には、それはおかしい、という人もいるだろう。どうしたって、私たちはリアルな世界に生きている、と。しかし、ではその、リアルとは何だろうか。唯一の景色や特定の人の発言、均一化された料理の味に耳にする同じはずのメロディ、そういったものが人によって受け止め方が異なるとすれば、それは一人一人が有している感覚、世界観の違いによるものだろう。幻想というと何だか、気を失った夢の中で何がどうなっているかわからない世界を彷徨うような漠然としたイメージがあるかもしれない。だが、最初に述べたように物語、自分が主人公の物語的にとらえ、そういった人の集まりで世界が構成されているとすれば、幻想と呼ぶことがふさわしい。
カールロジャースの至言、「現実とは幻想のことである。人の心の中にあるものこそが現実である」は、各個人の“リアル”を見事に表現していると思う。
つまり、私たちがどう思い感じているか、が私たちを取り巻く世界を作っているし、私たちがどう働きかけていくかによって、世界は感じ取れないほど微細に変化していく。自分の一挙手一投足で世界をポンと変えることはできないが、世界とはこういうものだ、と思い込んでそれに合わせて生き続けると、必然世界もそのようの答える。自分の思い描くことが幻想となって表れた世界を我々は現実と呼んでいる。
何が言いたいか。
自分が思い描く幻想が自分を取り巻く世界を作るのであれば、まず自分を肯定する世界であることが、自分の幸せの大前提になる。それが、自分が望む意味での大切な人々の幸せにもつながる。
それはいつも言うように、自分がかけがえのない存在であること、生まれた時から今もずっと素敵な存在であることを、しっかりと認識しろ、ということだ。
小難しく長々と書いてきたのは、それが伝えたかった。
イタリアの名作映画「ニューシネマパラダイス(Nuevo Cinema Paradisso)」で、アルフレッドがトトに伝えた言葉を“どうやって”実践したらいいのだ、と半ば憤りながら見ていた時期があった。
「いいか、お前のやることを愛せ。子供の頃、映画を愛したように、お前がやることを愛するんだ」
今自分を苦しめている、かつて自分を愛した感情を、世界を、臨場感を、取り戻すことが大切だ。
あなたは、私は、そして私たちの大切な人々は誰もが、かけがえのない存在なのだ。軽い命や人生など、ただの一つもない。
今回も読んでくれてありがとうございます。
また次回。
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