前回、存在の耐えられない軽さについて、
お話しさせていただきました。
題名はと言えば、
話しの内容とはかけ離れているのですが、
同名の小説や映画もあって、
そこからいただいたものです。
その中で、
ほんの1行ほど述べた、
自分を認めるということ。
時々使われているのを
見かける言葉だけど、
その深遠にして本質的な意味を
理解できていない言葉。
今回はその威力と魅力について
是非知っていただきたく、
お話しさせていただきます。
生きづらさ、
行き詰まり、
自身の存在感の薄さ、
自尊心の欠如に気づいて、
何か凄いことを達成しようとして
あがいていた状態から、
御大層なことを成し遂げようとしなくていい、
という学びを得て、
もっと日常のささやかな幸せを求めよう
そう思っても、なぜか感じられない、
そんなことはないでしょうか。
それは、なぜ?
私たちの自尊心、自信、幸せの感覚の根っこには、
ある種の集合体があって、
それを原家族の中で植え付けられています。
そんなものない、という人もいますが、
反論を承知で申し上げれば、
ほぼ誰もが『持っています』。
どんなことかと言うと、
それは自分の一挙手一投足を認められて、
生まれ育ち生きてきたということ。
『一挙手一投足を認められて』と書きました。
認める、と言うと、
何か、
賞をもらう、とか、
素晴らしい(素敵、かわいい、りりしい)
と言われる、とか、
資格を得る、とか
理解しがちですが、
そうではありません。
素のあなたがそのまま、
朝起きてから夜眠るまで、
時には眠っている間さえ、
そこにいて、
見て、聞いて、嗅いで、味わって、触って、
考えて、感じて、
涙して、怒って、笑って、喜んで、
行動して、話をして、
起きて、寝て、
食べて、…
といったように、
限りなくある日々の行動を、
自分が自分に
しっかりと、はっきりと、
見てあげることなのです。
これを私たちは、
親や兄弟姉妹から、
祖父母や親類、
学校や隣近所の人たちから、
何となく認識され、
時に声をかけられ、
一緒になって笑ったり、
注意を受けたり叱られたりしながら、
自分がそこにあることの当然さを
自分の無意識に刷り込みながら、
生きるという寂しさの中に、
自分の存在を確認してきました。
それを自分で自分に対して、
行うようにすること、
それもごく自然にすること、
それが認める、と言うことなのです。
大人になるとは、
親から与えられたことを、
自分でできるようになることで、
しかし、実際には誰もが必ず
不足している部分を持っています。
その不足、時には欠如が進んでいると、
自身の存在が耐えられないほどの軽さとして、
身に迫ってくる。
時にはそれがうつ病や適応障害として
日々の暮らしや仕事へも
影響してい来ることがあります。
自分を認める=自己受容ということ。
自分褒めという作業があるけれど、
勘違いを招きやすい気もします。
褒めるというとぴんと来ないんですよね。
認めること。
その“当たり前の”自分、
当たり前にそこにあることが
“当たり前”であることを認めること。
こうすると、
自分の心の原風景を取り戻すことにも
つながります。
感情を認めることについて話したように、
瞬間瞬間の全てを自身が認めてあげる、
あなたの存在の確からしさは
その集積に尽きます。
ー今回の表紙画像ー
『夏の富士山_身延線より』
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