罪悪感から原風景まで

日々の棚卸

 

これまでにも何度かふれた、原風景のこと。

きっとこれからも何度も取り上げますが、

そんな原風景の効用について、

今回は書きます。

 

最初はここで書きました。↓

https://nakatanihidetaka.com/yourlandscape/

 

罪悪感に伴うパフォーマンスの低下を

招いている人がいて、

当然ながら、

それが日常生活に

マイナスの影響を与えています。

罪悪感の大半は、

ほんとは意味がないというか、

そりゃ考え方が反対だろう、

と思われることだったりするのですが、

罪悪感を抱える方々は、

それでもまるで趣味か癖のように、

自分はどれほど悪いことをしてきたのか、

うまく生きられていないのか、

人を傷つけてきたのか、

大切な人を幸せにできていないのか、

そういった発想というか感覚に、

“がんじがらめに”

絡めとられていたりします。

 

そんな自分を、

どこかでおかしいと感じている人もいれば、

頑なに“守り続けて”

再演を繰り返しておられる方もいる。

 

罪悪感の痛みに耐えかねる無意識が

自分を責めるパワーを

周囲に転嫁していることもあって、

そういう場合はなかなか

当人も気づかなかったりしています。

 

「いやいや、決してそんなことない。

いかにも好んでやっているように思われるのは

何と言っても心外だ」

そう言う方もいらっしゃる。

食って掛かられたこともあります。

時にはけんか腰になっていることも。

 

でも、あえて言わせていただければ、

やっぱり好んでそうしている、

つまり、

好んで罪悪感を抱えておられる、

そう感じてしまいます。

決して揶揄しているのではありません。

かく言う私がまさにそのど真ん中に

長くどっぷりとつかっていたのですから、

そのメカニズムも苦しみも

身に染みて理解しているつもりです。

罪悪感というのは、

ある種そのくらい都合がよいものでも

あるのです。

 

その際、仮に、

アディクション=嗜癖、

つまり嗜好して癖になっている、

そんな状態に陥っているとするなら、

その根底には、譲れない想いが

眠っているのだと思います。

アディクションとして有名なものには

アルコールや薬物や食べ吐きや

ギャンブルや借金や買い物といった

ものがありますが、

現在では、そうと意識せずにすがりつき、

そのためにゆっくりと自分の生活と魂とが

乗っ取られ、蝕まれていく

行為や対象や考え方の全てが

含まれると解釈されています。

 

そんなアディクションの根底にある

譲れない想いには、

少なくともそれを抱える人の中では

年齢的、社会的、時間的な

垣根はありません。

大切な、愛する人々との間で生じた

誤解とかすれ違いという名で

済ませてしまうことが到底できない

哀しい出来事、

怒りが収まらない言葉、

悔しい仕打ち、

おぞましい現実、

圧倒的に不足した環境、

感じることも教わらなかった愛情、

そういったところに端を発して

まるで窒息しかかって酸素を求めるように

与えられるはずだった何かを求める自分と

折り合いをつけざるを得ない日々の生活と

を両方とも切り捨てられないでいるとき、

前者を自分の意識の背後に隠して

それを生き延びさせるための

無意識の方策として、

アディクションが発動するのです。

別の角度から言えば、

想いと不足とを自覚できないまま

心の表層に泡のように浮かんだ、

心の奥底から導き出してきたとは

到底言いかねるような夢なるものを

実現しようとするような、

明後日の方向に向かって

行動しているがゆえに、

それを維持する“癖”が必要なわけです。

関連して言わせていただければ、

罪悪感に絡めとられている人は、

いつもどこかで

自分以外の何かにも腹を立てています。

 

何なんでしょうね。

なんでそんなに

罪悪感が必要なのでしょうね。

 

原風景とは、

最初に紹介したページにも書いたように、

私たちの中に存在している、

ある種の懐かしさに伴うもので、

自分の存在を肯定する根っこである、

『そこに自分が存在していることが

当然であることを

空気のように当たり前に感じられる』

そんな感覚を伴った

五感に根差したシーンのことです。

純粋に風景であったり、

心象的なものであったり、

他の五感的なものであったり、

個人の身体にまつろうものであったり、

もちろん

肉親とともにあるものであったり、

様々です。

それは、

現在の、

あるいは過去の、

目を覆いたくなるような、

惨めな、

悲惨な、

時にはズルい自分に捉われて、

ともすれば

身動きできなくなりがちな現実をそのままに、

動き出すことができる

肯定感という名の

強力なドライブフォースとなりえます。

 

この感覚は、

見たくない自分、

例えば、

弱々しく泣き崩れていたり、

何かに惨めにすがりついていたり、

見境なく怒り続けていたり、

無気力に沈んでいたり、

そういった

格好悪い(と当人が思い込んでいる)自分を

大切な自分の一部として受け入れる中で

感じ取れるようになるものです。

受け入れる、とは、

そういった一人一人の自分を

自分の大切な手足や心臓や

お子さんがいる方は赤ん坊の頃の

子供を扱うように

丁寧に、真摯に、自分の分身として

いつもともにあり、

自分の一部とすることです。

 

裏を返せば、

自分を受け入れていない間は、

見たくない自分を否認しているわけで、

その状態を続けようとすれば、

素の自分を感じることから

目くらましするために

アディクションが必要になるし、

その手前に罪悪感が存在するということです。

 

ですから、

原風景の獲得・再会と、

そこにたどり着くプロセスとなる、

心の感覚の時間旅行は、

自分を受け入れるための

処方箋でもあるのです。

 

私たちの

意思、

考え、

行動、

生活、

夢、

つながり、

そういったことのすべての始まりの中に

最も影響を与えているものは、

ご存じのように、

自己肯定感と

自分が大切にする存在のことです。

 

罪悪感を抱えていること、

少なくとも感じていること、

それはここまでの話からすれば、

チャンスでもあることがわかります。

少なくとも、

自分を受け入れ、

肯定するための

きっかけとして

誰にも触れられない

自らの中に生じているのですから。

 

痛みを感じること、

苦しいこと、

どれも、そこには

きちんと見ることができていない

大切な自分が何かを伝えてくる

メッセージが存在している、

そう受け止めてみてください。

 

そのメッセージを発端として、

一つ一つ紐解いていく作業は

新しい自分の可能性を見出すことでも

あるわけです。

 

罪悪感に苛まれた自分が

自分を受け入れる作業を続けて

原風景にたどり着いた時、

世界は自分が自分として生きるための

肯定的なステージに変わります。

 

ー今回の表紙画像ー

『街の東を流れる川_昨年7月景』

週間天気予報はずっと雨マーク。そろそろ晴れないかな。