幸せですか、と問われて、はい、私は幸せです、とはっきり答えられる人が私たちの国にいったいどのくらいいるのかな、と思うときがあります。はっきり「幸せです」と答えられる人は、おそらくこのサイトにそれほど用はない気がしますが、さりとて徹底的に幸せではない人というのも、そう感じる人の主観はさておき、私には想像が難しい。
かくいう自分はと言えば、まあおそらく幸せなのかな、という感じ。ほのかな満足感はあるが、諸手を挙げて幸せだぜ、という感じでもない。もともと感動しやすい気質なのか、胸を締め付けられるような感動はたまにあるけれど、それは幸せのおまけのようなものだ、と考えるのがしっくりきます。
これまでにも述べてきたとおり、原家族の中でいくつも哀しい経験をしてきて、そこに根差した感情に囚われ続けている間、随分苦しみました。その頃よく、幸せというのは実は架空の概念であって、自分はもちろん世の中に本当の意味で幸せな人などいないのだろう、と、今から振り返ると頭を抱えたくなるようなものの見方をしていた時期がありました。あそこで幸せと言っている人は、そこで幸せそうにしている人は、ただ、何かを錯覚しているだけなのだ、と。本当はそんなものどこにもなくて、人はただ死んでいくだけなんだと。
もう一度、幸せですか、と問われれば、かなり確信的な感じで「おそらくね」と答えると思います。「確信的に」…「おそらくね」…。我ながら、なんだかすかしてるなあ、と言われても“仕方がない”答えですが、本音だから“仕方がない”。
幸せじゃないと感じる人は多いようです。少なくとも私に会いに来られるある種の人たちの中には随分といらっしゃる。内容は人それぞれで、幸せではない、という表現自体を口にする人は少ないものの、目の前の問題、あるいは家族や親しい付き合いの中で生じた哀しい過去などによって、自分の感性も現実生活も絡め取られてしまっているように見えます。
これは、苦しい。
魂の呼吸ができないからです。
放置すればおおもとにある感情自体が腐ってしまう。その人自身の存在さえ溶かして消してしまいかねない。
“普通”の人々は皆、本能的に気づいているからこそ、このような状態に対して抗おうとします。ただ、何に対して抗おうとしているのかが見えていないために、事態をおかしな方向へこじれさせてもしまいます。
そんなときは、まずそこにある感情と対峙し、自分がどういう状況にあるのかを知る必要があるし、カウンセリングならそのようにもっていきます。芽生えた情動、気づいた感情はその人自身のものだから、その是非をつけたり捌いたりする資格は他人である私にはないし、そうすることにさしたる意味もありません。実際にお気の毒なケースもあるので、こうしましょう、と言えるところにたどり着くまでに少々時間を要したりもします。幸せな自分を想起できるようになるためには、まずすっぴんの自己との対峙が間違いなく必要なのです。
幸せの対極にある概念はやはり、「不幸」でしょうか。では、そもそも幸せとは何なのでしょう。
愛の対極は無視である、と言われますが、愛の対極には何もない、全てが愛だ、というのが持論です。
「そんな馬鹿な!」
「暴論だ!」
と言われる方もいらっしゃるかもしれません。無視はもちろん、DVや性的暴力、果ては戦争まで、そんなものが愛なのか、と言われると、一瞬躊躇するというかびくついてしまうのも事実です。被害の当事者には、こんな言葉で“片づけられて”しまっては、たまったもんじゃない、というのもあるでしょう。それは自分を振り返ってみても十分すぎるほど共感できます。
…が、誤解と炎上を恐れず言えば、それらは皆、本来の愛が歪みつくして表現されたものだと思うのです。その歪んだ表現のもとに歪んたまま守りたい何かがあって、それによって幼い命が奪われたり、力の弱い者が自尊心をはぎ取られたりするのだから、行為そのものが良くないことは重々承知しています。ただ、全ての人、存在が愛の塊として生まれてきて、愛を求め、愛を与え、愛のある人生を構築しようとして、多くの挫折と処理しきれない感情の連続の中で徐々に圧倒的な力に抗しきれずにある方向に歪んでいく、と考えると、愛の対極には何もない、ということが私には受け入れられやすい。そして、そんなある種の歪んだ愛に触れ続ける羽目になって、そこから派生する負の感情にがんじがらめになっていること、それによって生活がおかしくなっていることが不幸だとするなら、幸せはその対極の状態のことだと思うのです。何だか言葉の遊びのようになってしまいましたが、刹那的ではない、安定した自然な気持ちよさの世界に包まれている状態が幸せだと思うし、それは自分と向き合った上で自ら見出せるもので、それを体得することも含まれると思います。
そういう意味で、何が自分をこんなに苦しめているのかもわからず、怒りと恐れとに埋もれていた頃の私は、不幸だったのかもしれません。原家族の哀しい状況に対して、自分の感情がどこから湧いてきて、なぜそれほどまで自分を苦しめるのかもわからず、荒んだ日々を送っていたのですから。
そして、それこそが自分が自分にとっての幸せを知っていることの証拠でもあることを自覚したのは、そういった生活から抜け出して随分たってからのことでした。
私はずっと、自分にとっての幸せを、『知っていた』。
幸せを知らない人に、苦しさなど認識できるはずもない。
魂の苦痛は、そうではない状態と比較して感じるものです。しかし、幸せを知っていることを認めることは、自分がずっと不幸だったという被害者の物語を肯定できなくなってしまいます。過去を呪いながら被害者の位置に甘んじていることを放棄せざるを得なくなります。怒りをぶつける対象を許してしまいかねません。
変化はいつも不安です。しかし、タバコやアルコールが使い方によって気づかぬうちに自らの内部をゆっくりと蝕んでいくように、魂を侵食するプロセスに蓋をしているうちに人生は終わってしまうのです。
そうしないためには、本来自分を傷つけるはずのない、奥底に眠った大切な自分自身としっかり向きあう必要があります。おそらく、そこから得られる幸せと、それを土台として未来を歩いていく幸せ、それ以上のものはないのではないでしょうか。
自分が幸せを知っていることに気づいてから、私の中で自他を怒り蔑む感情は、薄皮をはぐように少しずつ消えていきました。
そんなに自分のことイジメちゃだめだよ
もう少し自分のこと信用してみようよ
嫌々人と接するんじゃなくてちょっとだけ距離を近づけてみようよ。
そういった言葉を随所で自分に小さくささやきかけていくうち、新しい生活がちょっとずつ構築されていきました。
ある日、ハタと気づいたのは、わざわざ不幸にするような感情の暴風がなぜ自分の中で吹き荒れるのか、ということの答えでした。
前述の通り、“知っていた”のです。
私は、そんな感情を湧き出させるほど、そうではない日常を、自分を、生活を知っていたのです。あるいは体感し続けていたのです
それを苦しいと感じるほどに、苦しくないことが当たり前の日々を知っていたのです。
当たり前に父がいて母がいて家族がある日々。
当たり前に笑い、人と会って、話す日々。
当たり前に自分が傷つかない空間と人の関係がある日々。
昔、モンゴルやルーマニアから報告されたマンホールチルドレンたちの中には、家のある生活ができないことに恨みを抱かない子供が随分いたといいます。なぜなら、その子たちは物心ついたときにはそんな生活をしていて、普通に家があって親がいて食べ物がある生活というものを知らないから。身近な人に騙されることなく、ネズミに耳を齧られず、暖かい部屋で眠ることができる生活を知らないから。愛情を感じたり、口論で人の関係が破綻しない生活を知らないから。
不幸、という日常しか知らない人は、不幸、に怒り傷つくことはないのではないでしょうか。
それらの感情は、幸せを知っている人々に特有の感情なのではないでしょうか。
既に自分自身の足でどこにでも歩いて行けること、歩き続けることで自ら不幸を幸せに変えることが、自分の人生を背負うということなのです。
と、偉そうなことを書いてしまいますが、ここにたどり着くまでの間に私は随分多くの人に迷惑をかけたなと思います。そして、そんな状況でも自分を受け入れてくれるほど、この国は、人々はあたたかく、懐が深いのだな、と感じています。
今、傷ついて苦しんでいるなら、まず自分に寄り添いましょう。
もちろん、どうしても心身がきつくて仕方がないのであれば、入院を含めて医療機関をきちんと利用しましょう。
その上で、自分に非があるかどうかより、まず自分を身動きできない状態にしている感情を手放し、その場から離れるようにしましょう。
それですぐ、自分はOKになりました、は、ないと思いますが、ともかくまず、目の前にある問題から湧き上がる感情に囚われていることを自覚できるようにする必要があります。非があったならその部分はきちんと謝罪し、自分を勇気づけることに力を注ぎましょう。繰り返になりますが、誰か、ではなく、自分と向き合うことです。特にその誰か、が大切な親や伴侶や子供だったとしても、今のあなたにできることは何よりまず、自分と向き合うことにつきるのです。
そして、苦しい、哀しい、という感覚はどんな状態と比較してそうなのか、を考えてみましょう。出てきた答えは、あなたの幸せの『一次回答』です。一次、と言ったのは、それをたどっていくことであなたの存在を形作り、今も見守ってくれているにもかかわらず、あなたが意識できていない本質的な感覚こそ、幸せの本質と隣り合わせのものだからです。
今は真っ暗な暗闇かもしれない。あるいは混乱に翻弄されているかもしれない。
でもね。
あなたは、幸せを、知っているんですよ。
あまり自分を追い詰めないで
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