親の幸せを願うこと

日々の棚卸

親が子供の幸せを願う話。

これは、古今東西、随所に見られます。

実際には必ずしも、

そんな、

我が子や養子を愛する美しい話ばかりとは

限らないことが、

カウンセリングや

精神医療の世界に身を置いて、

様々な事例を知るにつれ、

理解するようになりますが、

それらを包含した上で言えることとして、

やはり、

親は子供の幸せを願っているものだ

ということです。

 

あらゆる親は

自らの心と体がついていく限りの

自分にできることを、

精一杯やって、

子供の幸せを願っていると思います。

どこかから聞こえてくる子供たちの反論を

一時的にスルーさせていただければ、

例え、

怒鳴ったり、

わめいたり、

嘘をついたり、

スポイルしたり、

引っ叩いたり、

お金を出せなかったり、

上の学校へやらなかったり、

子供の収入を家計の足しにしたり、

いわゆる

世に言う虐待的な部分まで含めたとしても

その親のできる範囲、

ということは

力量の範囲で、

財力の範囲で、

度量の範囲で、

洞察力の範囲で、

人間性の範囲で、

歴史観の範囲で、

受け入れの範囲で、

体の健康の範囲で、

精神的な正常性の範囲で、

受け継がれてきた価値観の範囲で、

タフネスの範囲で、

自己肯定感の範囲で、

見栄やプライドの範囲で、

つまり、

そういった己が可能な範囲で、

精一杯の愛情を与えてきた、

そう思うのです。

愛情と呼ぶのが憚られるとしても、

それは子供が

外的に学び、

メディアや

学校や

友人どうしの話から

作り上げた基準と比べての話で、

ほんとはそこまでできればいいことくらい、

親だってわかっている。

あるいは、

そんなものは自分だって与えたいと思っている。

でも与え方がわからない。

そんなものだと思います。

この時代の、

ともすれば親の虐待に焦点が当たりがちな

中ではありますが、

少なくとも

親という立場に立てば、

そういうことだと思うのです。

 

ただ、

その表現方法によっては、

親自身が混乱してしまい、

子供をかわいがれない、

子供に腹が立って仕方がない、

子供に怒りをぶつけてしまう

そう言って、

カウンセリングや治療の場に

現れたりして、

自信を失い、

とても打ちひしがれていて、

それでいてある方面への

怒りと憎しみが燃え上がっていたりして、

そんな自分に

どうしていいかわからなくなっている。

そして、子供に対する仕打ちに

自分を責めておられる。

親だろうが、

何歳だろうが、

人間なのだから、

本当は迷って当たり前なのだけど、

子供に対してはどうしても

責任感と

プライドと

我が子への想いとから、

より完璧になろうと

無意識のうちになってしまうので、

それとは程遠い結果になってしまう。

 

こういった話を、

私自身がクライアントだった時代、

そして、

専門家の端くれとなった後、

いくつもの哀しい家庭環境で

生まれ育った方の成育歴をうかがう機会を得、

そんな中で生きてきたかつての子供たちが

養育する側に回って悩んでいる現実に

一筋縄では得られない解を、

足りない頭で探したりしました。

同時に、私自身が

原家族の様々な問題の混乱から

少しずつ回復した後、

私の父親と母親のことを振り返ってみて、

彼らに対して考えたことでもあります。

 

子供に振るわれる暴力は、

間違っても許されるものではありません。

先に、虐待的な、と述べた中にも

そういった行為が含まれているなら

それは何をどう弁解したところで、

猛省と罰則と治療とが

必要であるのは言うまでもありません。

まかり間違っても、

子供たちがそういった親のことを

正しいから受け入れろ、

などとなってはいけない。

ただ、ここで申し上げたいことは、

そういったこととは別に、

親はその出方がどうであれ、

それはその親のできる範囲での

精一杯だったということです。

 

そんな

精一杯とか

できる限りとか

の中に含まれてしまうのかもしれませんが、

子供に向けた愛情のほんの一旦でも

ご自身に向ける瞬間が

何とか得られなかったものかと

思います。

 

某クリニックで医師の話を聞くため、

クライアントの立場を得て

通い出した頃のことです。

既に父親の自死から

10年ほどの歳月が流れていました。

それを知った当時のドクターが

「自殺で10年も経ってるのに

まだダメージ引きずってるなんて長すぎ」

そう言われたことがあります。

彼なりの診断なのでしょう。

そのドクターのコメントについて

何か言うつもりはありません。

(不愉快だ、ということですね)

ただ、子供はそこまで引きずるほどに、

一度は敵意に近い感情を向ける場合もある

親と、

そして親が与えてくれた生活に

愛着を感じ続け、

そこをベースに歩き続けます。

少なくとも私はそうでした。

だから、人によっては、

10年も20年も、

時には一生かかって

恢復する自分に寄り添い続けることだって

すんく中らずあり得ます。

もちろん、そんな土台自体が

つまり

ベースとなるような養護や愛着の記憶自体が

見当たらない人もいます。

そんな人に対して私は、

全霊を傾けて対応するしかありません。

 

さて、いつものように長くなりましたが、

ここまでは実は前置きです。

 

同じことが子供の側にも言える、

そういう話です。

子供は、幼い頃、

親のしつけに従います。

無意識に隠れた動機があるからです。

だからこそ、両親が不仲の家や、

ロボットのように感じる家の子供は、

罪悪感とともに、荒れるか引きこもる。

本当に、

子供が荒れている家には、

見事なくらい画一的な状況の

親・夫婦の関係があります。

そんな家の子供は、

自分の未来を素晴らしいものにするため

あるいはそこまでいかなくても

多少なりともましなものにするため、

という

教育やしつけ、夢を

自分が実現していくことで、

 

『親はきっと豊かな人生を送ってくれる』

『親の不仲は和らぐ』

『親が優しさを取り戻してくれる』

そして、

『親はきっと幸せになってくれる』

『親はきっと幸せでいてくれる』

本人も意識していない

そんな隠れた想いを持ち、

骨の髄まで願っています。

それがどうあがいても実現しそうにない、

自分ではどうしようもない、

と思った時、

もうこの人たち(親)のことはいいや、と

思えるのならいいのですが、

子供は優しいから

親に対してそう離れないことは

ご存じのとおりです。

 

中ほどを過ぎたあたりで、

『子供に向けた愛情のほんの一旦でも

ご自身に向ける瞬間が

何とか得られなかったものか』

と書きました。

それは、親自身が自分を愛護し、愛することを

子供も感じ取り、学ぶからです。

そして、親が崩れない限り、

子供は多少世間と折り合いが悪かろうが

成績や地位が低かろうが、

子供なりに彼ら自身の人生を

歩んでいきます。

先に挙げた、

『子供が荒れている家には、

見事なくらい画一的な状況の

親・夫婦の関係があります』

の真意は、

そんな親夫婦の状況の家では

子供が親の心配をし

隠れた怒りを受け止め続け、

それを体現する生活をし、

自分自身を振り返るための

時間も余裕もエネルギーも

なくなってしまっているということです。

 

子供の問題は、親自身の生き方の問題。

子供の幸せは、

親が親自身で納得いく人生をどれだけ

歩むかと関係する、

そんな可能性あることを

頭の片隅に置いていただければと思います。

 

ー今回の表紙画像ー

『川沿いの散歩道』

梅雨にもかかわらず、人は結構出ていました。自粛明けだからかな。