あなたの思い出にしがみついているのはつらい

日々の棚卸

 

仕事がどうにもうまくいかない、

というより、

今働いている状況が苦痛で仕方がない、

という感情が続く、

 

自分の取り巻きの人々との付き合いが

苦痛で苦しくて仕方がない、

 

それも、もうホントにどうしようもなく

そう感じる日々が、

永遠に続くように感じている…。

 

その理由を考えた時、

 

仕事の内容そのものや

評価のされ方だったり、

 

取り巻きの中の特定に人の

仕草、声音、言い方、表情、

 

先の見えない今の立場や

募り続ける不安などが、

 

本当に査収的に当てはまるのか、

 

あるいは、

 

その奥に問うべきことがないのかを

振り返ってみませんか。

 

いや、とにかく、ホントに本当に

嫌だ、苦しい、辛い、

という感覚は正しいのだと思います。

 

だってあなたの感覚なのだから。

 

そこに、少なくともそのレベルでは

嘘など混じりようがないでしょうから。

 

ただ、もしそれが真実なら、

そこを改善できれば、

問題は解決すると思うのですが、

 

もし仮に改善を試みたとして、

それでも似たようなことに苦しむなら、

 

あるいは既に何度か試みて

また同じような状況になってしまうならば、

 

もう一つ奥に何かがあるのかもしれませんが、

 

今の感情と出来事にとらわれてしまって、

肝心の“本当の”出処が

隠されてしまっていては、

 

自分の状態、状況が

良くなるようにしようとしても、

 

いつまでたっても変えようがない、

というか、

変える手立てが見つかりません。

 

外に向けていた感情や、

不安と憤りにばかり焦点を当てていた心を

ほんの少し手放して、

 

こんなことがないか

振り返ってみてください。

 

胸の奥に秘かに蠢いている感覚を

感じ取ったりすることはないでしょうか

 

自分の胸の奥から

何かが訴えてきている、

何かが出たがっている、

 

そんな具体的な言葉ではなくても

何かが心の内側でカサコソとしている、

といったようなことでも結構です。

 

探ってみると、

意外にすぐに感じられるかも。

 

疲労困憊のわけでもないのに

不意に「もう動けない」と感じて、

 

歩くことや行動そのものをやめたくなった、

いえ、

身体と感情が拒否している、

 

といったことはないでしょうか。

 

正確には、

「もう動きたくない」なのではないでしょうか。

 

例えば、

生殺与奪の権限を握る上司から

指示されたことだとしても、

 

法律でそう決まっていたとしても、

 

もう、ホントに、これ以上は

心がついていかない、

 

といったことが、

折に触れてあるのではないでしょうか。

 

どこにいても、どんな状況であっても

例え褒められたり給与が上がったり、

といったことがあっても、

 

落ち着かなくて苦しい、

そこにいること自体が辛い、

というようなことをヒントに、

 

今のその感情が

何かの思い出に繋がってないか

考えてみましょう、という提案を

したいと思います。

 

 

私はマザコンでファザコンのせいなのか、

他界した今も彼らが懐かしいし、

会いたいと思う時があります。

 

自分の一部として統合された

彼らとの思い出がいろいろとあって、

 

楽しい思い出、

優しい思い出、

胸が躍った思い出、

嬉しくて感動した思い出、

 

そういった記憶が甦る機会が、

彼らと会いたくて仕方がなくなる時です。

 

これらと比べると数は少なくなりましたが、

 

哀しい思い出、

残酷な思い出、

絶望的な思い出、

憤る思い出のように、

 

過去の適切な時期と場所に

戻ってもらった記憶が出張ってくることも

たまにはあって、

 

そんな時は、

なんであんなことしたんだよ、

とまではいかなくても、

 

やっぱりやりすぎだったよね、あれは、

と、

 

既にこの世からいなくなった彼らに向けて、

そう言いたくなることもあります。

 

もっともこれらは、

今だから言えることなのかもしれません。

 

記憶に残る思い出と

こんな距離で再会するたび、

これからを生きる静かな示唆を

感じられるのはとてもありがたいことです。

 

 

思い出が自分の今と

必要以上に密着していた頃の混乱は

何度も書いている通りで、

 

目の前の仕事の混乱、

目の前の人々との衝突、

目の前の世界への憤りと恐怖、

 

そういった感情、感覚に絡めとられて

何が自分をそうさせているのか、

どうやってそう感じるようになっているのか、

 

全く理解することができませんでした。

 

思い出を記憶と呼び変えてもいいのですが、

思い出は、望むと望まざるとにかかわらず、

人生の大切な1ページです。

 

そして、思い出という言葉のとおり、

今現在の自分にあまりに密着しすぎていると

それを触媒として感情の表出を招きつつ、

 

同時に、

思い出自身とのつながりを隠してしまい、

現在を混乱させます。

 

トラウマが“凍り付いた記憶”と言われる

ことがありますが、

 

過去のある時期に起こった出来事が

今を支配しているという意味で

その典型ですね。

 

これが、例えばある種の事故などのように、

一度の大きな出来事であれば、

わかりやすいのですが、

 

家族の中で起こる哀しい出来事は、

細かく繰り返された蓄積として

記憶に残るので

もう少し厄介かもしれません。

 

申し上げたいのは、

思い出は、

必死になってしがみ付いている間は、

 

その良さも悪さも本当の意味では

感じ取ることができないということ。

 

素敵な思い出は、

消さないようにとあまりに力んで

ぎゅっとしがみ付いている間は、

 

そこに眠っている暖かさや有難さ、

示唆や勇気を感じ取ることが

むずかしくなります。

 

一方、

良くない思い出にしがみ付いている

自覚のある人は少ないかもしれません。

 

実際、しがみ付くどころか

自分と世の中と一体化させて

しまっている人が

多いように思います。

 

それ、つまり、良くない思い出を前提に

世の中と付き合ってしまって

その故に自分が受けている困苦の

ルーツに気づくこともできないまま、

 

今日も目の前に展開される出来事の

受け止め方に苦しんでいます。

 

この状態では、良い思い出に

しがみ付いていることももちろん気づけず、

当然その良さも感じ取れなくなっているから、

 

既に失ってしまったもの、

終わってしまってもう二度と起こらないもの

ということになってしまうわけです。

 

しがみ付いている間は、

何も機能しないんです。

 

そういう意味では、

良くない思い出にしがみ付くことを

『あきらめて』『手放すこと』が必要です。

 

それは確かに、あなたの人生にあった、

一つの出来事です。

 

なかったことにではできないし、

なかったことにする必要もありません。

 

それが良い思い出なら、

喜び、感謝し、感動し、自分を信じ、

 

それが良くない思い出なら、

哀しみ、怒り、決意をし、

 

あなたの人生の適切な時間と場所に

位置付けて、

あなた自身が必要な時に

そのシーンを、その情動を、その示唆を

思い出せばいい。

 

ただ、良くない思い出、

残酷な、哀しい、苦しい思い出などを

思い出す必要がある場合には、

 

安全な場所で、安全な他者の助けを

借りる必要があるでしょう。

 

自分のできる範囲で、勇気をもって

良くない思い出を何度も語るうち、

すぐそばにいてくれた良い思い出の感覚が、

 

あなたをもう一度、

あなたの人生の主人公だと

気づかせてくれます。

 

 

遠い昔、

まんが『めぞん一刻』で、

旦那さんのお墓参りにきて手を合わせた

音無響子さんが言った

 

「あなたの思い出にしがみ付いているのは

もっとつらい」

「生きている人たちが、

私の生活に入ってきている」

 

と言っていましたね。

 

子供心に、感動しながら読んでいましたが、

今はあの時以上に、胸にしみ込んできます。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『公園の秋』

免許更新で鎌倉へいってきた。

帰り道、近所の川べりを歩くと秋が終わろうとしていた。