最優先で思い出したい自信

日々の棚卸

 

自信には2種類あります。

いえ、何種類でもいいのですが、

とりあえず2種類、

そう考えてみてください。

 

2種類とは何か。

それは、

自分の存在に対する自信、

そして、

何かをできるかどうか。

 

前者に理由はありません。

強いてあげれば、

静かな歓びと感謝の裏返しでしょうか。

 

もっと言うなら、

自信とさえ感じる必要もないほど、

当然と言える感覚とでも言えばいいでしょうか。

 

一方、後者には、

何かをできるかどうか、

達成したかどうか、

そういった能力的なものに対する

明確な判断指標があります。

 

ここで取り上げたいのは、前者、

すなわち

自分の存在に対する自信について。

 

自分がそこにいること、

自分が自分であること、

自分が存在すること、

が、

当然であるとき、

 

自分に対する疑いはありません。

自分の考え、

自分の感じ方、

自分の行為。

 

自分で自分を受け入れているのだから、

当然と言えば当然ですよね。

 

気合を入れて、

何かに怒って、

悲壮感に包まれて、

マニュアルに沿って、

仕方なしに

行動する必要がないのです。

 

よく言われる、

根拠のない自信という言葉を聞いて

どうにもぴんと来ない人は、

私以外にもいます。

 

なぜそう感じたのか、

今にしてわかるのは、

言葉の遊びというわけではないでしょうが、

体感的にしっくりこなかった

ということです。

 

反対に(?)

そのこと、つまり

自分の存在その喪に対する自信の必要性を

よくわかっている人に言わせれば、

「だから、それができないから困ってる」

ということになります。

 

確かにその通り。

私もそうでした。

 

前回を含め、

多くの紙片を割いて

自己の受容について書きました。

 

考え方にも、行動にも、感じ方にも

大きな影響を及ぼす、

とても大切なことだと。

 

同時に、

自己を受容することは

忘れていた大切なものを

再獲得できるとも書いてきました。

 

心の原風景の獲得は

その最たるものの一つです。

 

原風景には、

世の価値観とは別の

あなたらしさが存在します。

 

あなたが自信を無くしていて、

自分を疑っている時、

“切り離された”自分が

どこかにいるのかもしれません。

 

 

自分の存在そのものに対する自信とは、

少し表現を変えれば、

どこにいても、

誰といても、

いつであっても、

どんな状況でも、

自分が自分であることが当たり前にOKで

そんな自分であることが当然で

意識にも上らない状態です。

 

この世に生を授かった私たちは

そうやって根源的な、

自信という言葉にさえならない

ある種の当然さを身に着けて

その上に幾重もの、

感じられたり、

解釈できたりする

自信を重ねて生きています。

 

そしてそれがある時

思いがけない出来事によって、

根源から何段目かで

ガツンっと

へし折られたり、

切り取られたり、

時には溶かされてしまったりして

二度と立ち直れない、

と感じるときがあります。

 

あなたはいかがでしょう。

 

そして、

世の多くの自信に関する話は、

専ら、

上述の積み重ねられた自信について

述べている。

 

根拠のない自信と言われたときの

空虚さ、つかみどころのなさを

感じたとき、

もっと自分に根差した確かなものを

求めていたことに思い至り、

それは何だろうと思いあぐねて

最初の話につながります。

 

自分が世の中で

どんな存在なのか、

何点くらいなのか、

そういったこととは関係なく、

自信や当然も感じる必要がないほど、

自分として生きることを

自然に行えるようになると

人生が変わります。

 

さて、そこで自信のないあなたへ。

ない、ということは

心の中に空隙がある、

ということです。

 

そこに新しい何かを探して

自信とするのもいいと思います。

 

ですが、

何もない状態ならまず、

根源的な何かを

“思い出して”みてはいかがでしょう。

 

自信がない?

素晴らしい。

本当に、冗談抜きで、

素晴らしいことです。

 

なぜなら、

そこには、

あなた自身に戻ることができる

チャンスがあるからです。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『狩野川のほとりより1』