××らしさ、という言葉は
ご存知の通り、昔から使われています。
どんな“らしさ”があるかというと
男らしさ
女らしさ
父親らしさ
母親らしさ
夫らしさ
妻らしさ
子供らしさ
大人らしさ
日本人らしさ
社会人らしさ
小学生らしさ
中学生らしさ
高校生らしさ
学生らしさ
ええ、んんん…、他には…、
プロらしさ
武士らしさ
経営者らしさ
店長らしさ
社員らしさ
書道家らしさ
漁師らしさ
警察官らしさ
パッと思いつくところではこんな感じでしょうか。
中には使われなくなった言葉もありますが
ご容赦ください。
自分“らしさ”の話をする前に、
“らしさ”とは何かを考えてみたかったので…。
×דらしさ”は、
行動や考え方、あり方や理念を決める時の
基準とか、縛りとして
使われていることが多いと思います。
たいてい、
「××らしくしろ(してください)!」とか
「××らしく生きよう」
「××らしく感じられる」
という文脈でしょうか。
つまり、“らしく”あることが、
利害が絡む周囲から求められていたり、
迷った時に概念的な指針にしようとしたり、
という意味合いで用いられている。
実際には、その言葉を発する人の、
独りよがり的な解釈になっていたり、
使う当人も実は適切な意味が解らなかったり、
要するに、
意図通りに機能しない使われ方になっている、
ような気もします。
…こう考えると、“らしさ”というのは
随分眉唾な言葉のような気もしてきますね。
自分“らしさ”もまた、
ほんとうは眉唾なのでしょうか。
自分“らしさ”なんてほんとうは
必要ないのでしょうか。
★
当ブログを含むこのWeb上の各ページは、
かけがえのない人生を納得して生きたい、
でも現実には何かうまくいってなくて、
朧に原因はわかるのだけど、
どうしたらよいかわからない、
そんなかつての(随分昔の)自分に向けて
書いています。
あの頃の自分、そしておそらくは
あの頃の“一般的な”社会には
浸透はしていなかったことであって、
あの頃に理解していたら、
あの頃に社会に浸透していたら、
もう少しすみやかに、
もう少し穏やかに、
自分を生きる場所にたどり着けたと思える、
幾ばくかのヒントを発信しています。
その観点から一言、
自分“らしさ”は必要です。
ただ、使い方を間違えないようにしたい。
自分“らしさ”は、
縛りの言葉ではありません。
縛るのは、思い込みです。
思い込みとは、世の中と他者の視点から
あるべき自分を想定して
あたかも自分“らしさ”とすること。
そんな勘違いをした使い方は
徐々に選択肢を狭めていき、
日常が追い詰められていきます。
自分“らしさ”は、
自己正当化の言葉ではありません。
試しもせずにやらないまま
自分にはできないから、という言い訳、
自分を受け入れないまま
自分はこういう人だから、という言い訳。
自分“らしく”あることと、
自分が正しいこととは
違います。
これらをして、
自分“らしさ”の罠にはまる、
といいいます。
あなたに必要な自分“らしさ”とは、
自分を受け入れる中で、
理解し、体得していくものです。
自分を受け入れないまま、
自分“らしさ”なるものを考えても
答えはわかりません。
自分を受け入れるとは、いつも言うように、
日々の軋轢や周囲の評価に合わせようとして
徐々に見失ってしまった、
忌み嫌って遠ざけていた自分、
情けなさに目を閉じて見なくしている自分、
心・意識の裏側に隠してしまった自分、
そういった自分一人ひとりと『邂逅』して
かつて素の自分の中にいたように、
もう一度自分自身に統合・一体化することです。
余談ですが、毎回この話をするたびに、
私たちは誰もが大なり小なり、
統合失調的に生きているのではという
思いに囚われます。
話を戻すと、
自分の一体化が進むということは、
社会的、世間的に良い、となる以外の自分を
知る・感じるということです。
その中には、きっと、知ったからといって
容易には変えられない自分もいるでしょう。
それはその時点における、自分“らしさ”です。
神経質に細かくて、それでいて
正確に何かをなすことができない、
とか、
どうにも周囲の意に沿わない行動に
苛立ちが抑えられない、
とか、
いつも周囲に怯えて、
動き出すことをためらってしまい、
結局、何もすることができない
といった、
誰も褒めてくれない、
受け入れて統合した自分さえ、
慈しむのが大変な自分かもしれません。
知ってしまうと、その自分が理由で、
何かに失敗したり、
人と衝突したりしたときに、
なぜそんな自分が居るのか
過去を引き合いに言い訳をしながら、
誰かのせいにしたくもなるでしょう。
同時に、
統合したはずのその自分をもう一度
切り離そうとする厄介な力が
働いてしまうことを感じるかもしれません。
できることは、
自分以外の誰かを責めるのではなく、
原因となった自分を責めるのでもなく、
その厄介な自分にしっかりと寄り添い、
『一緒にどうするか考える』ことです。
日々が辛く苦しいとどうしても、
『一緒にどうするか考える』ことが
ゴールのない道のりを歩むように思えて、
気持ちが萎えてしまったり、
原因となる自分を切り離しにかかったり
する人がいますが、
ここまでの話を理解したなら、
何をどうすることが必要か、
よくわかるかと思います。
そういう意味では、
自分“らしさ”もまた、変化するんです。
自分“らしさ”を良い方へ変化させるためには、
受け入れて、一緒に寄り添って、
起こっている問題と仲良くして、
できることからやっていくこと。
できることとは、往々にしてその場だけ
考え方や振る舞いを変えることに
落ち着きがちですが、
なぜそうするか、そう考えるかを理解し、
継続的に行うことです。
ゴールはありませんが、
変化は確実に起こり、
あなたの弱みだった部分の自分“らしさ”が
あなたの貴重な一部として魅力に変わる、
つまり問題が問題ではなくなる時がきます。
私たちは、
自分の強みが生かせる場では強いけれど、
自分の弱みを無理やり矯正することなく
どうしていけばよいか知りませんでした。
でも自分“らしさ”を尊びながら、
自分の弱みを構成する
醜さ、情けなさ、格好悪さ、などを知り、慈しみ、
その自分“らしさ”に基づいて生きることで、
あなただけの、
あなたにフィットした
あなたに必要な
あなたが生きる基準としての
自分“らしさ”が出来上がってきます。
短時間ではないけれど、
自分を見放さない、
社会を無下に批判しすぎない、
そんな中で、少しずつ自分が納得する
生き方ができるようになっていきます。
繰り返しますね。
自分“らしさ”を『使う』とは、
まず自分の弱いところを知ることから
はじまります。
次に、弱いところ、つまり、
自分が見たくない、遠ざけたい、
嫌だと思っている自分と邂逅し、
自分の一部として慈しみ、
一体化して生きることを心がけます。
次第に、自分“らしさ”に変化が生じます。
今までずっと、弱みと思っていた
自分“らしさ”の部分が、愛しく大切な
生きる仲間として感じられるようになります。
自分“らしさ”に変容が生じるのです。
文字にするとそれほど多くはありません。
ただ、人にもよりますが、継続が大前提。
変化は生じる時には生じます。
どうか、自分を追い詰めすぎず、
ゆっくりとやっていきましょう。
ー今回の表紙画像ー
『真夏の青空を見上げる場所に向けて歩く小道』
すっかり背が高くなった川沿いの草木をぬって歩いていく。視界が開けて青空が見える。夏は苦手だけど、そんなところは好きだなあ。
それにしても、暑いぃ~。
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