前回、
若い頃に住み着いた孤独の世界について
つらつらと述べさせていただきました。
そこからの恢復というか、
ヒトやモノや記憶や感覚とつながりなおす
経緯についても、
これまで折に触れて書いてきました。
孤独。
つながりの欠如。
こう書いておいてなんですが、
孤独感自体は
決して悪いこととは、私は思いません。
また、生きている以上、
完全に消えてなくなるものでもありません。
そういう意味では、
常に私たちの横にある、
いえ体に内包されてある孤独という
もう一人の自分。
孤独という感覚は、
それ自体が私たちを追い込むのでは
ありません。
妄想となって脳(体)に想起される
不安・不幸な未来・味方レスの感覚を
現実と見まがうことで、
取り込まれてしまいます。
孤独の感覚は、
それ単体で生じることは
基本的にはありません。
何かのきっかけ・出来事があって、
それに対する反応として
私たちの胸の内に生じ、
時に行動や感情を支配します。
その点を見ると、
怒りの感覚が生じるメカニズムとも
似ていますね。
似て非なる感覚にもの哀しさがありますが、
これはある意味充実した大人の感情と
言えるかもしれません。
秋の気配や夕暮れのもの哀しさなどは
その例でしょう。
それに対して孤独感は人によっては
怖れたり遠ざけたりしがちな感覚です。
ほんとは、
孤独感とは何よりも大切な、
それでいて気づいていない
自分自身の一部なのですけどね。
孤独感の中では、
自分が生きている現実世界に対する
洞察が進むこともあれば、
自分自身の
これまでの生き方に対する無理、
本音を顧みない目標を求めるフェイク、
に気づくこともあります。
孤独、孤独と連発してきましたが、
だから、孤独を恐れるな!
などと言うつもりはありません。
そんなの、難しいですよね。
単純に、寂しいもんは寂しい。
ほんとにその通りです。
いえ、寂しいなんて表現は甘すぎる!
と言われる方も、中にはおられるでしょう。
私も陥ったことがありますが、
孤独は煮詰まると、恐怖を催します。
それほどに私たちは普段、
孤独だ、寂しい、と感じられるだけの
何か・誰かとの一体性を無意識に持っているのです。
ですが、それは自ら振り返らない限り
なかなか感じられるものではありません。
そして新しい誰か、何かと
つながりを求めようとする。
ただ、無理に誰かなにかとつながっても、
無理につながった感があるだけで、
孤独の裏側にれっきとして存在する
『本音』を知る機会を失うだけ。
町を歩いてると、いろんな人が目につきます。
いろんな、というのは、
サラリーマンだったり、
主婦だったり、
高校生だったり、
お年寄りだったり、
無職の人だったり、
一人で歩いている人だったり、
連れだって話をしている人だったり、
行く当てもなく歩いている人だったり、
買い物中だったり、
今日の夜のご飯を楽しみにしていたり、
夫の言葉に腹を立てていたり、
転職を考えていたり、
上司の仕打ちにとてつもない怒りを抱えていたり、
何もかもがうまくいかないと感じていて
行き詰っていたり、
ほんとに本当に、
文字通りいろんな人のことです。
人は幼い万能間に包まれているうちは、
あの人は〇、あの人は×と、
まるで自分が優れてると思い込んで
人を勝手にジャッジしてしまいがち。
あるいは反対に、
自分の劣っているところを見つけた、
と自分自身でダメ出ししたり。
誰も彼もを好きになるなんて
まずもってできるものではありません。
ただ、そんな視点を意識することで、
余計な判断をしたり
無駄な優越感や劣等感、不安に陥って、
無用な感情の嵐を自ら巻き起こす回数を
大きく減らすことができるはず。
たたかわないこと。
他者や社会とたたかわないこと、の前に
自分が過去を利用して生み出す
幻の敵とたたかわないことです。
孤独が教えてくれることの一つは、
人間そんなにかわりゃしないんだ、
という、ごく当たり前の事実。
それがほどよく?
自分の中に位置を占めて、
そこにいる一人きりの自分と仲良くなれるようになると、
“苛まれる”ことがなくなるんです。
繰り返しになりますが、
孤独感とは、何よりも大切な、
それでいて気づいていない
自分自身の一部ですからね。
本当は、そんな自分との出会いを求めて、
あなたの無意識が孤独を演出しているのかも
しれませんね。
ー今回の表紙画像ー
『ひっそりとした海水浴場』
うわさに聞いた釣り場、三浦半島の穴場と言われる某海水浴場へ。最盛期でもまばらだとか。きれいだったけど急な坂道はきつかった。。。
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