幻が今を操っている

日々の棚卸

 

イタリアの有名な映画に、

『ニューシネマパラダイス』という作品があります。

 

ご覧になった方も多いと思います。

当ブログでも何度か触れました。

 

評論家の一致した見解は、

 

『『ニュー・シネマ・パラダイス』は

青春、郷愁、そして映画そのものの力に対して

人生を肯定する頌歌である。』

 

だそうです(Wikiより転載)

 

どう述べるかはともかく、

素敵な映画だと思います。

 

念のため、ご存知ない方のために、

ざっとあらすじをたどります。

 

映画は、成功してローマに暮らす、

おそらく40代後半の映画監督の主人公が、

 

映画技師であり父親代わりだった

アルフレードの死の知らせを聞き、

 

現代(1980年代)から第二次大戦前後当時を

回想するシーンから始まります。

 

小学生(低学年)の主人公トトは、

シチリア島の僻地で、

母親と妹の貧しい3人暮らし。

 

お父さんは戦争へ行っています。

 

1日1食の生活を送る中、

楽しみはといえば、

 

村の劇場で上映される映画と

映写室で切り取られるフィルムの切れ端を

集めて空想の世界に浸ること。

 

劇場に出入りしては叱られながら、

劇場の映画技師で中年のアルフレードと

親しくなります。

 

とはいっても最初は、

上映室に足を踏み入れるたび、

来るな、と言われてばかり。

 

そんなある日、小学校卒業試験で

トトのクラスにやってきたアルフレードは

試験が全く分からない。

 

トトに目配せで答えをねだるアルフレードに、

ゼスチャでフィルム再生技術の指導と

交換条件をにんまり伝えるトト。

 

しぶしぶ承諾したアルフレード。

 

先生たち監視の一瞬のスキをついて放られた

トトからのくしゃくしゃに丸まった解答用紙。

 

キャッチして今度はアルフレードがにんまり。

 

約束通り、アルフレードはトトに

映写の技術を教えるようになります。

 

悲劇が起きたのは、

とあるヒット映画の上映の時。

 

アルフレードのちょっとした操作で

火を噴いた映写機と火事になる映画館。

 

父親の戦死公報が届き失意に陥る母親と、

視力を失ったアルフレードの代わりに、

トトは子供ながら映画の上映を任されます。

 

青年になったトトは、

青い目のエレナと激しい恋に落ち、

 

互いに惹かれあいながらも

身分の違いから引き離され、

 

徴兵から戻ると映写室には既に別の技師が。

 

居場所を見失ったトトに、

アルフレードは街を出るように促します。

 

「ここにあるのは幻だけだ。

郷愁に惑わされるな。

長い年月の間戻ってくるな。

 

戻ってきてもわしは会わんぞ。

遠くでお前のうわさを聞きたい』

 

それがトトを送り出す

アルフレードの言葉でした。

 

 

私たちの人生では常に、

これまで生きて蓄積されてきた過去が

現在に影響しています。

 

あまりに当たり前のことにも思えますが、

意外に認識されていないようにも

思えます。

 

事実というか真実というか、

私たちは理屈・論理で判断を繰り返しながら

生きているようでいて、

 

本当のところは、

過去という“幻”に操られています。

 

過去とは、経験と解釈、

そして“感情”の蓄積であり、

既に終わったはずの時間のことですが、

 

先に述べた通り、

それをして現在を生きている以上、

実はその時間は終わりきっていません。

 

死せる孔明、生ける仲達を走らす、

ではありませんが、

私たちはどうしても過去には支配されがちです。

 

良い悪いについて

述べているわけではありません。。

 

私たちは経験の積み重ねによって、

痛みや哀しみを招く状態を回避し、

喜びや興味や夢を手にする方策を学びます。

 

少なくとも、そうしたいと考えています。

 

しかし実際には、

過去の積み重ねによって、

 

本来回避したいはずの

痛みや哀しみを招いたり、

 

手にしたいはずの

喜びや興味や夢を遠のかせることも

時に“繰り返し”起こっていたりします。

 

親、家族がそれなりに機能した家で

育った人は、幻に操られて

人生をこじらせる可能性は少ないでしょう。

 

別の角度から言えば、

幻に操られているという前提で、

 

日常が辛く苦しくて

何とかしないと耐えられそうもない、

ということが何度も続く場合には、

 

自分が幻に振り回されていないか

“冷静に”なった後で、

振り返ってみた方がいいでしょう。

 

幻といいましたが、

いつも言う心の血肉として

私たちにしっかりと宿っているという意味では、

 

見えないけれども

幻などではないのかもしれません。

 

体の癖、仕草、嗜癖があるなら、

選択する言葉、思わず取る態度、

卑下ややっかみが日常的なら、

 

そしてこれ以上、

そんな日々に苛まれたくないのであれば、

 

その体、その心に宿った幻が何なのか、

振り返ってみることです。

 

大方の場合、不要なこと、

相手へのしがみ付きや

救いの手を差し伸べようとすることばかりに

 

“躍起”になって、

 

肝心の自らが窮しているにもかかわらず、

操られていることすら気がつかない

ものだからです。

 

幻は一方的な悪ではありません。

もちろん一方的な善でもありません。

 

ただただ、

今の状況はあなたの意思より奥にある

過去という幻の仕業だと、

 

ほんの少しでよいので考えてみてください。

 

助けて!どうにかして!と

パニックになりながら、

日々を混乱して生きているあなたを、

 

正気に戻し、

あなたの生き方を問いかけてくれるでしょう。

 

どう生きたいの?

なぜそんなに自分をぞんざいに扱うの?

安定という監獄にいたいの?

 

そんな、ともすれば目をそらしがちな

問いかけと向き合い、

自分の回答を引き出す時、

 

問題は問題でなくなります。

 

ー今回の表紙画像ー

『ひしゃげたケーキ』

4人分だとか書いてあって、小さいなと思いながら買ったら、やっぱ小さかった。。。

クリスマスはナポリんタンと鳥からとケーキだな、やっぱ。