未熟が起こす奇跡

日々の棚卸

 

漠然と不安があって、

漠然と幸せになりたくて、

漠然と豊かな暮らしを望みながら、

 

先へ進めない日々に苦しんでいると、

 

結局自分が実現したいことを

明確にせざるを得なくなります。

 

本当は、どうなりたいんだろう、と。

 

お金は欲しいし、

家族は欲しいし、

恋人は欲しいし、

仕事は楽しくしたいし、

大きな家は欲しいし、

自由な時間は欲しいし、

それなりに輝きたいし、

楽したいし、

……。

 

で、本当に望んでいるのは、

どんな世界で、

そこで自分はどうあるんだろう、と。

 

『本当』はというところは

“ほんとう”にミソで、

 

それを知るべく、

他者や社会・世間の目を外すのに

一苦労も二苦労もするけれど、

 

もともとが自分の想いなのだから、

怖れることなく、

正直に

自分と対話を重ねるうち、

『本当』が見えてきます。

 

『本当』が見えてくると、

そうなるために必要なことが何か、

そうなるために必要な自分が何なのかも、

わかるようにもなります。

 

大抵の場合は、

物凄い自分である必要はないことが、

見えてくるようになるんです。

 

物凄いこと、

例えば、

たくさんお金を持っていたり、

きらきらした恋人がいたり、

仕事に輝いていたり、

誰もが羨む素敵な家を持っていたり、

時間に全く束縛されなかったり、

 

そういったことは

結果としてあるかもしれないけれど、

そこが最初の目標である必要なんて

まったくないということ。

 

決して何もしなくていいわけじゃないけれど、

自分のできないことを卑下したり、

見ないようにして突っ走ろうとしていたり、

といったことが必要がないと気づきます。

 

世界の見方と、

自分の受け止め方が、

変わる時ですね。

 

ある程度自然にできることを、

続けることを多少意識しつつ、

できる範囲で行ううちに、

 

実現したいベーシックな部分、

『本当』までの道のりが見えてきます。

 

すると、

あるいは、

それ以前に、

 

それまで未熟だと感じていた部分、

『本当』以上の何かを達成するために、

劣っていると感じていた部分が、

 

紛れもない自分の大切な一部であり、

自分に与えられた“恵み”だと、

感じられるようになります。

 

『本当』の自分の想いとはかけ離れた

明後日の方向を向いていたとしても、

 

そんな自分を守るために、

必死になって動いてくれていた、

自分の大切な未熟君。。。

 

必死に周囲に合わせようとして、

傷つき、疲れ果て、

それでも動き続けてくれた、

大切な、たいせつな、もう一人のあなた。

 

未熟さが恩恵だと感じられるようになると、

世界が変わります。

 

恩恵は、受け入れてはじめて得られます。

 

詰まるところは自分自身が

嫌っていたり、

遠ざけていたり、

無視していたり、

否認していたり、

 

そんな自分自身と和解すること。

 

いつもの話になってしまった。

 

未熟なところって、

未熟と感じるところって、

なぜ、短所と感じるんでしょう。

 

きっと、

そういう価値観、生き方で生きてきたから。

そういう価値観を植え付けられたから。

 

…でも、過去はどうあれ、

今その価値観を選択し続けているのも自分。

 

価値が自分の内面から紡がれたものではないから

苦しんでいる。

 

そんな人生歩みたくないはず。

 

未熟を感じることは、

だからこそ恩恵なんです。

 

そこに気づいて、

力を向ける方向を変えると、

 

未熟はもう未熟でも何でもなくて、

未熟という表現をするのも変で、

 

自分の想いを遂げるための道を

自分の足で歩むためのエネルギーで、

自分のオリジナリティそのもの。

 

みんな、とりあえず未熟なんです。

それでいい。

調子に乗って、

ええ格好して、

痛い目見て、

無力に陥って、

どうしようもないやつだと自己卑下して、

それでも生きている。

 

それでいいんだ、

それでよかったんです、

ここまでは。

 

そんな心境に達する頃には、

未熟は大切な一部となって

自らに統合されて、

新しい世界を一緒に歩いてくれていますよ。

 

ー今回の表紙画像ー

『城ヶ島に行ってきた』

曇りで冷えてたなあ。それでも釣り人や観光の人々がぽつぽつと見られました。