働き方・仕事を選択する基準となる想いの大切さ

日々の棚卸

 

これ以上この仕事を続けるのは無理、

そろそろ働き方を変えたい、

この条件では続けられない、

この人間関係の中では無理、

自分の求める場所に行けそうにない、

 

そうなってしまう理由を考えても、

どこまでが自分の原因で、

どこまでが本当は譲歩すべきことか

よくわからない。

 

自分は我儘なのだろうか。

周囲に恵まれてないのだろうか。

あるいはもっと積極的に動くべきなのか。

何が正しくて、何が間違っているか

その基準がわからない。

下手に行動を起こして、

また同じことになったら、

目も当てられない。

自分の至らなさが起こしたことならば、

それに対処して自分をよくすることが

先じゃないのだろうか。

 

そんな堂々巡りを繰り返しながら

悶々として動くことができない。

それが昔の私の姿でした。

お酒を飲んで誤魔化したり、

似たような誰かとつるんでは

文句を言いあったりして、

“うさ”を晴らしてばかり。

当然、日々の生活も、仕事の状況も

よくなることはなく、

何より自分の心は常に

何か得体のしれない怖れによって

震えていましたが、

当時はそれを感じ取ることができないほど、

そう言った部分の感情が

麻痺してしまっていました。

 

自分が何をするか、

何を考えるか、

どう働くか、

どう生きるか、

という以前に、

もう、ほとほと疲れ果ててしまった。

それが心底、正直な気持ちでした。

 

それまで歩んできた道は、

やっぱりどこかで

世の中の価値観に沿ったもので、

仕事の選択はともすれば

その究極だったと思います。

景気に左右されないほど安定した職、

人並みと言うなとは裏腹の良い給与、

世間体を担保する社名、

世に問えるほど優れた成果、

決してそれらが悪いわけではないと思います。

大なり小なり誰もが

そう言った世間の価値観や、

自分に与えられた家庭や周囲の環境とから、

その時々の状況に応じて選択を繰り返し、

人生を紡いでいっていて、

私もまた、その中の一人だったに

すぎなかったということです。

ただその過程で、

自分と原家族に起こった出来事によって、

仕事も生き方も、

そのまま続けることに対する

言いようのない息苦しさを

覚えるようになってもいました。

自分に起こったこと、

原家族の離散や肉親の自死、

生き残った家族の一人一人も

ある者は心を病み、

ある者は文字通り体を痛め、

自分もまたあまりの辛さに

このまま今の生活を続けることで

自分が、そして自分の大切な人々が

ますます不幸の中に頽れていくように

感じて仕方がなかったのです。

 

そんな状況の中で、

私は世間の価値観にも、

自分に与えられた環境にも、

どうにも順応することができず、

居心地が悪くなっていることに

気づかざるを得なくなっていました。

頑張れば頑張るほど、

誰か大切な人がいなくなる。

仕事が続けられなくなるほど辛くなる。

あるいは

頑張ろうが頑張らなかろうが、

誰か大切な人がいなくなる。

仕事が続けられなくなるほど辛くなる。

 

ずっと前から薄々気づいていた、

本当はその仕事も作業も働き方も、

自分の内側から湧き上がって求めたことでは、

全くないどころか、

子供の頃からずっと

不得手としていた領域であること、

それでも、

自分のやりたいこと、望む働き方へと

舵を切ることが

とても怖くて動けなかったこと、

そういった諸々のことに

文字通りのたうつほどに悩みました。

悶々とした日々が長く続きました。

 

その末に感じたこと。

 

そうだ、まずこのまま、

次のことを始めるための時間を取ろう。

そう考えるようになりました。

 

いつも仕事が終わるとへとへとになって、

何をする気力もわかない自分を

ひたすら奮い立たせて、

計画を立ててみる。

新しい世界に向かうんだ、と

自分に言い聞かせ、

朝は何時に起きて、

会社を何時に上がるように

仕事を効率よくこなして…。

そう思って、

…そして…、

やっぱりへとへとになって続かなくなる。

 

そこで今度は、

きっと時間の使い方がよくないからだと考え、

今度は時間術を駆使して、

日常生活を効率的にこなし、

やることを進めていこうと、

時間を整理して

ウイークデーとウイークエンド

それぞれの計画を事細かくたて、

実行してみました。

 

…そして…、また挫折。

ほんとうに、全くもって

見事なまでにうまくいきません。

 

そのうち、

疲れた頭と体と先が見えない不安な状態で、

何をする気力も起きなくなってしまいました。

 

そんなある日、

あまりに散らかった部屋を

片付けようとしたら、

昔、そのジャンルとして初めて読んだ、

とある精神科医が書いた心理の本が出てきて、

なんとなくパラパラとめくりました。

そのうちにある感覚が蘇ってきました。

その感覚はほんの内容そのものと直接

つながりがあったわけではありません。

ただ、それまでずっと燻り、

働き方を変えても、

仕事の内容を変えても

うまくいったためしがなかった私が

徐々に変わり始めた頃の

感覚を思い出してきたのです。

 

私は、

何のために、

何が欲しくて、

何をしようとしていたのか。

頑張ること、

時間術を駆使して日々を効率化すること、

良くない自分を変えること、

恢復すること、

 

そういったことよりもずっと、

ほんとにずっと手前に、

必要なことがあって、

そんな当然のことを思い出したのです。

 

自分は、不幸でも何でもない、

すでに救われていること

原家族の中にあった(と自分自身が感じている)

歓びの時間、

自分が愛着を感じたり、気がついたら

やっているほど好きなこと、

自分がすることで他の誰かが幸せになること、

できるだけ素に近い自分であることで

人とつながること、

それらのための行為が

結果として仕事となること、

 

日々のせわしなさの中に見失っていた、

自分が心の底から求める

そういった想いこそが

一番最初に必要なのだと切に感じていて、

そう感じる自分を大切に生きていこう、

そう決めて行動を起こしたことを、

一瞬のうちに、

体中に、胸が熱くなるように

蘇ってきたのです。

 

そこまで辿りなおして、

そう感じるようになると、

あとはもう心の赴くままに動くようになるし、

そんな時間の集積に日々が楽しくなりました。

 

いかがでしょう。

きっかけは何でもいいのです。

 

想いは、

どんなテクニックや

根性論や、

気合や、

表層的な世の中のレール上を進むよりも、

自分を動かしてくれる

根源的なドライブフォースです。

なぜならそこには、

本来、人が求めてやまない、

生き方、仕事、働き方に対する愛着感や、

そんな時間を持っていたことへの感謝、

自分や自分の周囲にあるものへの愛情、

自分がこの世に生きていて、

自分に従って行動することが

“当たり前”であることが

“当たり前”になること、

そういった自分そのものとして生きることへの

根源的な肯定感が詰まっているからです。

 

難しく考える必要はないと思います。

とかく負の感情に襲われがちな日常に

ほんの少しだけでも

自分を愛する時間、

愛着を持っていたことを思い出し、

これからやりたいことを想起し、

そこに思いを馳せる時間を

日々繰り返し持つところから

始めればいい。

 

そうやって、私自身は

自分の変化を実感したし、

それは誰もができることです。

自分のペースで構いません。

今目の前にある何か、

今思い浮かぶ何か、

そんなことへ手を伸ばすところから

始めてみましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『自家製ムラソイの煮つけ』

元はこれ。fishing at Odawara.