日々を振り返ること

日々の棚卸

当ブログの題名『日々の棚卸』。

棚卸という言葉は、在庫管理などで使われる言葉です。

ここでは、私自身の過去や日常の中で、

あるいはお会いした方との中で浮かんだ問いについて振り返り、

そこから得られた気付きと

ほんの少しの反省とを

私なりのペースで発信させていただいています。

棚卸として自らを振り返ること自体は、

カウンセリングという専門領域に踏み出した頃から十数年ほど

コツコツと続けてきました。

時には同じ悩みを抱えた人が集まる場に出向いて話をし、

時には私に相談される方との話の中に含み、

時にはとある小さな通信コラムに記事を書き、

一人の時間を利用して文章にして残したりしました。

このブログに掲載する内容の一部は、その際の文章から引用したものです。

 

コラムに掲載する記事はもちろん無料で

お金はいただいておりませんでした。

そもそもがそういう性格の冊子でしたし。

そのように、時間を見つけて『棚卸』なるものをすることに、

奇異な目を向ける知人もいました。

そうしてでも自分や他者を振り返ることが、

自分を生きる上で必要だと私は感じています。

決して無理はしないように、

けれど途切れることのないように、

自分に嘘をつかないように、

自分に寄り添うように、

等身大の自分を知ることができるように、

私自身にとっての良い働きかけになると感じたからです。

 

一人の人が自分と世の中・他者との関係を

どう受け止め、

どう働きかけていくかは、

その人に対して与えられた環境

- 語りかけられた言葉

- 触れられた感触

- 当人を取り巻く雰囲気

- 日々の生活

- 扱われ方

などに基づいて身に付けていくものです。

中には、間違いなく、良くないこと、

つまり与えられなかった方がよいこともあるでしょう。

必要十分、100点満点の付与というものがありえないことは

自分のそれを振り返るまでもなく、

容易に想像ができます。

100点満点中何点かはそれぞれの環境や相性にもよりますが、

あまりに点数が低いゆえに、

大人になってからの人生が苦しい人もいれば

そうでない人もいる。

そには、当人どころか

与える側にとっても

如何ともしがたい

運や無意識が作用する部分が含まれていたでしょうし、

それを無視して、今が苦しい、と嘆く時間は、

その人にとって苦痛以外の何ものでもありません。

単純に今という自分に与えられた時間を苦痛で満たすだけでなく、

過去という自分を支える存在をも否定・批判して苦しむ、

ことになってしまいます。

この世に生まれて生きてきた自分を、

本当は全くそんなことはないのに

頭ごなしに否定し続けるのですから、

それはそれは苦痛でのたうち回り、

それに耐えられなくなって鬱になるか、

怒りに転嫁して他者に攻撃的になりますよね。

この先の未来を真っ暗に感じてしまう自分の出来上がりです。

 

その痛み、

その苦しみ、

それも自分ばかりでなく

大切な人々との関係をも蝕むことが

きちんと認識されるのなら、

それを何とかしたいと思うのではないでしょうか。

 

少なくとも、私はそうでした。

 

何かを頑張って成果を出せば、

何かを得れば、

何かになれば、

その痛みや苦しみは薄らぎ、

良い経験、

良い人生、

良い気持ちを勝ち取れる、

それまでの人生を逆転できる、

そう思ってきた。

けれど、ある時、どこかで、

そこに大きな、巨大な疑問符を持ってしまった。

それが凄まじいショックのためなのか、

他の何かのせいなのかはわかりません。

 

そこから脱却したい。

光を見出したい。

そのためのヒントが欲しい。

そう思った時、

いくつもある試みの中で、

地味ではあるけれど、

もっとも簡単にできること、

もっとも自分に身近にできること、

もっとも確実にできること、

そして、いくばくかの時が経過した後も続いていれば

おそらく間違いなく自分のための成果が出ること、

それがこの“棚卸”だと思ったのです。

 

かつて自分に与えられた環境の多くは人為的なものです。

良い雰囲気も

悲しい光景も

耐え続けた時間も

思わず目をそむけたくなるような嫌な言葉も

皆、人の中で生み出されたものです。

良し悪しはともかくも、

人はそうやって1次的な人格を形成されます。

逆に言えば、その後で異なる環境に身をおいて、

自分を苦しめている影響を取り除き(心理学用語で“脱学習”といいます)

身を置いた環境で必要な要素を取り入れる。

それを行うことで閉ざされていた自分を受け入れられるようになるはずです。

それが、棚卸です。

最初は、やりたくないな、という気持ちはもちろんありました。

馬鹿らしい、というのが主な理由でした。

今にして思えば、少々自慰的なみすぼらしささえ想像してしまっていたのだと思います。

 

でもよくよく考えてみれば、

私たちが自分を大切に生きていくということは、

私たちが自分自身を日々“魔法にかける”ことを

繰り返しているのだと私は思います。

私たちは、常に自分で自分を“魔法”にかけ続けて

この世界を生きている。

絶対、はない世界で、これは間違いない(だろう)と

“魔法”にかかり、それを真実であるかのように生きている。

その“魔法”が、

自分に寄り添ったものか、

自分を否定するものか、

それが生きづらさの分水嶺になっている。

それは自分で変えられることを

多くの人が知れば知るだけ、

自分の納得を得られると思うのだけど。

 

“魔法”を“幻想”と置き換えて考えると、

以下の記事になるかな。

https://nakatanihidetaka.com/genso/

 

大人を生きるときに大切なことは、自分を

“魔法にかける”能力

“魔法を信じる”能力

です。

私たちは、自分で自分にかけた“魔法”によって

行動し、

考え、

感じ方を選択し、

ある人は気分を害し、鬱に落ち込み

ある人は、まあこんなもんだと飄々と生き、

ある人は、充実している。

 

人はその人にとって必要ないことはしません。

これは、ヒントです。

何が必要でそんなことやってるんだろう。

 

そんなところから棚卸を行っていくと、

問い続けた先に、新しい自分が見えてきます。

 

ー今回の表紙画像ー

『5月の夏?緑満開』