草枕の限界

日々の棚卸

先日、以下で↓

https://nakatanihidetaka.com/runaway_memory/

グラナダTV版の

シャーロックホームズシリーズを

見ていたことをお話ししましたが、

原作者のコナンドイルが、この原作の

記念すべき1作目

『緋色の研究』(A Study in Scarlet)

を発表したのは1887年、

つまり19世紀末という大昔です。

全く患者が来ない開業医の男が

それだけはたっぷりとある時間にまかせて

書きあげた最初の作品は当時、

とある雑誌に掲載されたものの

全く反響がありませんでした。

何でもドイルはこの作品に相当自信を

もっていたそうですが、

それにもかかわらずの結果に

このシリーズを書くことをやめようと

考えていたそうです。

が、この矢先、

米国のリピンコット誌の編集者が

この作品を目にとめ、

前金とともに次回作を依頼してきたことで

今に至る愛読者を獲得するシリーズが

継続されることになりました。

これを機に世に出された二作目が

『四つの署名』です。

ドイルは英国人で、

ホームズシリーズも英国の作品

ということになっていますが、

そういういわけで、

ホームズを世に広めたのは米国人だと

アメリカ人は威張っているのだとか。

この経緯は、手元にある昭和28年初版発行の

新潮文庫版のあとがきに

訳者の延原謙さんが解説で書かれていて、

ちょっとした裏話になっていて面白かった。

 

夏目漱石がこの世に誕生したのは、

このシャーロックホームズシリーズの

記念すべき一作目が発表される少し前、

明治維新の前年(1867年)です。

彼が初期の作品『吾輩は猫である』を

発表したのは、

日英同盟締結直後の英国留学から戻って

2年後のことでした。

以降、

『坊っちゃん』

『草枕』

『三四郎』

『こころ』など

数々の名作を発表することになりますが、

英国生活で心を弱らせてしまった漱石が

今に伝わるこれらの作品を生み出したことには

とても勇気づけられます。

もっとも当人はと言えば、

胃炎・胃潰瘍で障害苦しみ続けたわけで

内面の葛藤もまた

今につながるモノの見方を抱えていた

のかもしれません。

 

ただ、それにしても

ドイルの作品にしてもそうですが、

100年以上も昔に書かれた作品が

今読んでも面白いというのは

凄いことですよね。

時代を経るごとに、

表現は進歩し、

時代に合わせ、

私たちの心をつかむ作品が

今も世に出回っていて、

それらはスッと心身にしみわたるように

読めてしまうものですが、

100年後にどんな作品が残っているのか

ちょっと知りたい気がします。

 

そういうわけで、

漱石は私の好きな作家のひとりでもあり、

ドイルとともに、

滔々と語ってしまいましたが、

そういう割には、

実はあまりきちんと読んでおりません。

今も手元にある

先に挙げた5つの作品以外に

読んだものと言えば

『硝子戸の中』くらいかな。

中学の頃、

読書感想文を書く宿題に、

思い切り短い作品で楽に読み終えるだろう

という下心のもとに、

図書館で借りてきたのがきっかけでした。

以来、なんだかんだとあって、

漱石の新しい(?)本を手に取る

機会がないまま今に至ります。

 

そんな中でも『草枕』は、

私でなくても、

書き出しの2行目からの一文が

多くの人の心の中に

刻まれていると思います。

コマーシャルにもなりましたし。

 

私たちは、日々の活動の中で、

何とか衝突を避け、

程よい人との距離の中で生きていこう、

そうやって

自分の感情を制御しようとしていますよね。

 

理屈っぽく、

正しいことを言って

相手を逃げ場なく牛耳って、

結果一人浮いてしまうことは

結構な方が経験したはずです。

 

同情し、

誰かのためといい、

この野郎と憤り、

最後は自分の心身に跳ね返ってくる。

自分の意思をひたすら追求していると、

周囲の奇異な視線をよそに

バカらしくなるまでひたすら忍耐。

 

理屈っぽくなりすぎないよう、

同情もほどほどに、

頑固にならないよう、

それぞれに注意を払うようにする。

いわゆる中庸というでしょうか。

 

『草枕』の名言。

「知に働けば角が立つ、

情に掉させば流される、

意地を通せば窮屈だ、

とかく人の世はすみにくい」

何だか、現代の私たちそのもの。

どうしたらいいんだろう。

 

個人的にはこの後、

そうやって自らの御し方を

調整しようと試みすぎて、

自分が何を感じているのか、

何を正しいと考えているのか、

までをも見失ってしまった、

と感じていた時期がありました。

 

知・情・意のそれぞれに心を配り、

しっかりとケアするほどに、

先に述べたように、

自分がどこを向き、何を感じているのか

わからなくなってしまった話は、

口に出さないだけで、

実は少なくない方が感じていることで、

そして誰もが対処しようとして

日々試行錯誤していて、

自分を押し殺しすぎないように、

自分を押し出しすぎないように、

自分の出し方を歪めてしまわないように

それとなく苦労していたりします。

 

提案ですが、

それらを、

つまり、知・情・意に対する注意を

一度脇に置いてみませんか。

特に知。

 

理屈が先行することも、

情に流されてしまうことも、

意思を曲げられないことも、

実はそれら自体は問題ではありません。

いえ、

正確に言えば、

ある種の悩みにはなるかもしれないけれど、

即変えるべきところではないと思います。

それらはすべて、

今のあなたそのものですから。

問題は、

それらをどう行動に移しているか、

あるいはいないか、

ではないでしょうか。

 

あなたの内側に湧き出でるものは、

知・情・意のどれもが

あなたの大切な一部です。

それらとしっかり向き合い

受け入れることなく

外側に合わせようとして

無下に否定したところで、

得るものは何もありません。

私たちは、誰もが

知覚・情動・意志を備えた

体をもっています。

知・情・意を外的な基準に

合わせようとして翻弄される前に、

まず

体、そして内面とつながることです。

 

その上で、

繰り返しになりますが、

知も情も意も一度受け止めて、

もっとも自分によい行動とは何か、

一拍おいて

それを自分自身と相談してみることを

試してみてください。

 

ー今回の表紙画像ー

『臨港パークからベイブリッジを臨む』

かすかに青空が…。