相談が相談となっていない、
ということはよくあります。
クライアントとしての私がそうでしたし、
逆の立場でもまたしかり、です。
以前、精神科医から、
10年も父親の自殺を引きずっているのは
おかしい、と言われたことを
お話ししました。
10年あれば、何らかの対処ができる、
現在の生活への影響を与えるような
心の動き、心の病を解決することは
その間に十分できたはずだ、
ということなのでしょう。
期間が限定されていることには、
今もまだ腑に落ちないものがありますが、
問題を抱えて苦しむ時間が
短いに越したことがないのは
確かのその通りです。
それは、自分が相談する側に立った経験から、
痛いほど感じることです。
私たちは、頭で理解することは比較的早い。
しかも、今はいくらでも
情報が手に入る環境が整っていて、
選好みしたり、
尻込みしたりしなければ、
今自分が抱える問題についても、
こう“考えたら”よい、
という理屈については、
その成否や妥当性についてはともかく
仕入れることはできます。
問題は、その考えと自分の感情・心とが
どうしても相反する状態にあることで、
この相克を乗り越えることこそが、
実は本来の解決だったりします。
そして、時にもっとも
労力を要するところでもあります。
よく、気づきの必要性がうたわれますが、
それは、この相克からの跳躍に必要な、
自分の中に何となく気になっている感情を
直感的、無意識的に実践するための
原動力となるからです。
相談する方が求めているのは、
その知恵であり、
サポートであり、
実行のヒントだと思います。
少なくとも、私がクライアントとして
関わっていた時には、そうでした。
実践・実行に戸惑っている人に
とにかく思い切って行け!
そこは根性だせ!
実行は気合いだ!
そういう掛け声が聞こえてくることがある
そう感じるのは、私だけでしょうか。
私は少年時代から、
何かを思い切ってするときは、
いつもそんな気持ちでやっていて、
結果として、
行き詰ってしまった時期があったので、
そうじゃないやり方があるといいな、
と当時から思っていたんですね。
念のために言いますが、
気合と根性は大切ですよ。
できる人はその方法も試してみてください。
ただ、そうじゃない場合、
実践が難しい場合には、
気がついたら、
流されるように、
そうしていた、
という感じで実践できてしまっている、
そんな感じだったらいいんだけどな、
そう思っていたということです。
クライアントが相談するのは
問題を解決するためではない。
孤独を解決するためだ。
そう何度も学び、
確かにそうなのかもしれない、と
思わされることがあります。
自死した私の父は、
どこの誰に相談するという発想すらないまま、
逝ってしまいました。
某精神科医は、
自殺の一歩手前には絶望が、
その手前には孤独がある、
と言っています。
この言葉を聞いたとき、
すぐに思い浮かんだのが父のことでした。
私は母と長い間疎遠にしていた、
という話はしましたが、
それ以前に父とはもっと距離をとって
暮らしていました。
母に残酷な父というイメージが
その頃はついて回っていたんですね。
(今は全くそんなことはありません)
当時は、
それでよい、
もう済んだことだ、
知らない人だ、
どうでもいいんだ、
もう近くにいないから
自分のことを苦しめたりしない、
そう思っていました。
ですが、残念ながら
そんなことは全くありませんでした。
自分の血を分けた、
曲がりなりにも面倒を見てもらった、
そして何より自分が生まれ育つ中で
同じ空間に生活して、
同じ空気を吸って、
同じご飯を食べて、
言葉の癖や、
体のにおいや、
日々笑ったり怒ったりする表情や、
共有した感情や、
生きる姿勢や
そういった大人になるまでの間の
もっとも多感な十数年の間に
自分の中に染み付き、
血肉となり、
良くも悪くもそんな感覚を土台として
今も自分の一部として生きている
そんな関係の人が、
どうでもよい存在であるわけがありません。
私は父を、孤独に追いやってしまったのでは。
そう受け止めていた時期がありました。
父に対する恨み辛み、憤り、
そんな自分を苦しめる感情から
距離を取りたかった、
そんなモラトリアムをやっているうちに
いなくなってしまった、
そんな感じがいまだに残っています。
仕方なかったのだとは思います。
若造だった私には、
今ほどの知恵はなかったし、
今ほどの覇気もなかったし、
親を一人の人間として見られるほど
精神的に独立できていたわけでもなく、
自分のことで精一杯でした。
当時の自分を責めるつもりはありません。
怠惰にサボっていたわけではなく
空回りしながらではありましたが、
私なりに解決に彷徨い、
私なりに必死に対応しようとしていて、
そんな私の苦しみは私自身が
一番知っていました。
でも、知恵が、余裕が、機転が
もうちょっとあったらな、とも
あの頃を思い出すたび、
感じたりもします。
自分が納得する人生を歩むために必要な
心の瑞々しさの再生や回復は、
あくまでその人のペースで取り組むことが
理想的です。
カウンセリングでもこれが大前提です。
ただ、人生はあまりに短い。
人生100年時代というけれど、
その大半を望まない感情に苛まれて
生き続けるなら、
それは苦痛の時間が長く続くだけ、
ということでもあります。
私自身、もう少し早く回復出来ていたら、
と思うことは今もあります。
こんな話をするときはいつもそうですが、
カウンセラーと名乗るのが
おこがましく感じます。
他山の石としてください。
ー今回の表紙画像ー
『横須賀の月(と明星)』
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