一寸先の闇の奥に光があることを知った

日々の棚卸

 

人間万事塞翁が馬という諺があります。

 

先日知人と話になって、

どんな意味だっけ、と頭をひねった末に

スマホでググってみると…

 

不幸が起きたと思ったら、

実はそれが幸運につながっていたり、

ラッキーなことが起こったと思ったら、

それが不幸の始まりだったり…

 

つまりは、

幸不幸はいつどちらに転ぶかわからないから、

安易に一喜一憂しない方がいい、

という記載がありました。

 

ちなみにわが国には

禍福は糾える縄の如し

という同じ意味の諺がありますね。

 

 

楽しく生きる。

自分の好きなことをして生活する、

心がついていかないなら、

ついていく仕事を作って食べていく、

 

私の原家族は、

そういった発想とは無縁でした。

 

批判ではありません。

 

日々を生きるのに懸命だった

当時の(今も多いですが)多くの日本の家族の

一つだったということです。

 

自分が得られる限られた仕事の中で、

仕事は仕事、遊びは遊び、と

きっぱり分けて生きようとしながら、

 

実際には生活の(心の)隅々まで、

仕事(の評価)と世間体で

占められていました。

 

ユーモアとか、

良い意味での手抜きとか、

自分に寄り添う機転が利かず、

 

家族の絆や心の状態よりも、

外部の都合を優先させたり、

痛みを押し殺して働いていました。

 

気がつくと、私もまた、

仕事、運動、そして遊ぶ時でさえ

得体の知れない何かに追い立てられる

大人になっていました。

 

そうやって紡いできた時間が

私なりの幸せにつながると思い込んでいて、

 

日々の生活にスタイルとして定着し出し、

未来の光が見えてきたと感じだした頃、

家族の形が崩れていきました。

 

一寸先は闇。

何が起こるかわからない。

 

当時から、

離婚とか家族の離散なんて、

よくあることだけどね、

なんて言葉を勝手に想像しながら、

 

予想だにしない出来事に、

文字通り混乱・パニックに包まれ、

 

自分に訪れた闇を

敵視するようになっていました。

 

こんな状態にある時に、

一般的な教えの言葉など耳に入るはずもなく、

頭の中ではWhy?が駆け巡るばかり。

 

何かに怒りをぶつけながら、

何かにひたすらお詫びしながら、

その実、何を感じ、何を考え、

何をしているのかもわからない。

 

同じ境遇を背負っても

飄々と生きられる人もいることを考えると、

 

あの当時の自分は本当に、

特定の価値観にガチガチに

凝り固まっていたなと思い出します。

 

 

その後、

自分の感性、感覚、辿ってきた道のりを

信じられるようになるまでに、

いろいろなことを試しましたが、

 

心理カウンセリングとか

セミナーの聴講などとは別に、

思い出されることがあります。

 

物語と視点についてです。

 

ピンとこないかもしれません。

 

一例として、

アレックスシアラー氏の

『スノードーム』を挙げます。

 

ここではストーリーそのものは

とりあえず置いておきます。

面白いですよ。。。

 

某ネットニュースで最新刊宣伝のため

来日していた氏のインタビュー記事が

記憶に残っていて、

 

当時暮らしていた街の図書館で

特に題名が気に入ったという理由で

借りたという経緯です。

 

この標題と自分の内面にもまた

一つつながりがあるのですが、

それはまた別の機会。

 

ついでに言えば、

図書館も本屋も不思議な場所ですよね。

 

ネット全盛のこの時代ですが、

意外な出会いがあって、

そこから気づかなかった世界が

広がることがある。

 

街の本屋と図書館は永遠なれ!

なんて。

 

ともかく、この『スノードーム』、

ちょっと面白かったので、

興味が湧いて、原題を見てみました。

 

『The Speed of the Dark』

暗闇の速度。

 

あ、物語同様、ちょっと面白い表現だな、

そう感じました。

 

暗闇の速度。

 

物理学的にはこれはあり得ません。

たぶん…。

 

闇は状態、光は物体なので、

物体である光の速度はありますが、

状態そのものの速度というのは

概念的に成立しない、

と考えるからです。

 

物語だからこその発想ですよね。

 

物語はこの世界に居ながらにして、

理屈の外側を提供してくれます。

 

なぜか、この物語の世界から

家族という一つの世界と

そこに暮らす一人ひとりの関係を

想起させられました。

 

家族というのは子供にとって

ある種の絶対空間です。

 

普通のパソコンは100Vの電圧が供給される、

という前提で正常に動作します。

 

1000Vや1Vが供給されても

正常には動作しません。で

前者なら間違いなく壊れます。

 

家族という世界が正常に機能する前提で、

子供(実は親も)もそれぞれが

彼らなりの状態を受け入れて、

 

社会の中でそれなりに生きるのですが、

 

世界のフレームが壊れていれば、

その世界の中の日との関係がおかしければ、

外に出ても人並みに動くことが難しくなる。

 

学校や会社をドロップアウトしたり、

引きこもったりするきっかけは

自分自身のしくじりや失敗かもしれませんが、

 

遡るとそんなところに行きつく場合があることは、

知られているようで

知られていなかったりします。

 

社会人になりたての頃は、

誰もが期待通り動けない部分を持っていて、

時に自らを悲観することがあります。

 

今はやりのレジリエンスではありませんが

それでも彼らはそれなりに問題を乗り越えて

生きていきます。

 

ですが、先に挙げた状態で生きてきた子供が

成人した後に失敗を重ねて悲観すると

次のように思い込んで生きるようになります。

 

先がわからないことは、

きっと何をやってもうまくいかない…。

 

これが続くと、

本当に何もかもがうまくいかなくなります。。。

この世は闇だ。。。

 

とても寂しくて、哀しい世界。

 

何だか文章がうまくつながっていませんね。

すいません。

 

ただ、物語から得た気付きは大きかった。

 

『一寸先は光』

 

そう、闇があれば光になることもある。

 

あまりに当たり前なのに、

気づかないとそんな状態が自分にもあり得る

という発想、可能性にさえ気づかなかった。

 

ちなみに私が初めてこの言葉を知ったのは

本多信一さんの著書からです。

 

人生はフィフティフィフティではありません。

良いこともあれば悪いこともある、

というのは方便ではないかと思います。

 

確率論で語る人もいますが、

理系オヤジの私に言わせれば、

あれは極限を取った場合の話。

 

人生100年と言っても

出来事は限られた回数しか起こりません。

 

悪いことばかり考え続けていれば、

徐々にですがそんな世界に包まれるようになる。

残念ですが、それが現実ではないでしょうか。

 

フィフティフィフティは、

何もかもコントロールしようとして、

明らかに行き詰って疲弊している人に、

流れに身を委ねることの必要性と心地よさを

伝えれるための理屈としてはあるでしょう。

 

厄介なのは言葉でいくら学んでも、

その発想、

つまり考え続けてしまうことから逃れる発想を

実践する大切さが身に沁みないことです。

 

ただ、闇があるなら光もあって、

闇の予感と光の予感もまた同じだと思います。

 

結果の保証は誰にもできません。

結果の保証を求める人生は究極、

絶望に行きつくのではないでしょうか。

 

私たちの行く手=未来にあるのは予感だけです。

 

予測は愚か、予想さえ、

その時々の感性に引きずられているのだから、

そう言っても差し支えないと思います。

 

そう考えると、

光なんて無理に求めない方がいい。

 

あなたの闇はあなたの光の裏返しです。

 

背後か、逆さまか、

あるいはほんの少し脇に出るだけなのか、

それはわかりません。

 

でも、輝かしい物は

それだけでは存在しえない。

 

輝かしさが生み出した闇があって、

はじめて存在します。

 

そして常に、

私たちそのものであるが故の恩恵は、

私たちが抱える闇の中から与えられる、

心底そう思います。

 

いえ、闇をくぐった先に、

と言った方がいいかもしれない。

 

あなたが求める本当の光は、

その闇の奥に息づいているはずです。

 

…ということを物語から視点を変えて

感じ取ったことは、

自分を変える上でちょっとした出来事でした。

 

ー今回の表紙画像ー

『町の夕景』

駅を出て振り返ると空がきれいだった。