世の中の正しさに惑わされず、しぶとく生きよう

日々の棚卸

 

資本主義社会と国民国家が始まって、

どこまで実現できているかはともかく、

機会の平等と豊かさの享受を

誰もが追いかけられる世の中になって

百数十年。

 

私たちは誰でも、

自分が『成功者』になれると言われ続け、

そうなることが真の価値であるかのように

理解するようになって久しい。

 

この社会が始まる以前、私たちのご先祖は、

固定された地位の中で喜怒哀楽を共にし、

働き、日々を暮らし、

良く諦めることを体得し、

生きていました。

 

きっと重い病にかかったら治らない。

金銭や食料の不足はあったでしょう。

 

一方で、

成功者になれるだろうか、とか

不平等の改正などといった概念は

持ち合わせていなかったと思います。

 

もちろん、

だからと言ってこの時代の方が今よりずっといい、

という人はそうそうおられないでしょう。

 

 

今の社会の始まりである明治の頃から、

急激に変化する世の中に翻弄されつつ、

誰もが新しい価値観に遅れないように、

自分を変化させながら、

新しく生じた困苦に耐えて生きていました。

 

 

翻って、

現在の私たち一般人は、

こと利便性においては

江戸の将軍の暮らしより便利かもしれませんが、

大多数の人が果てなき困苦を抱えています。

 

困苦の元は、

お金(収入・蓄え)の不足感だったり、

人から感じ取る愛情の欠如感だったり、

高い可能性で訪れる不安な未来像だったり、

 

それらの元となっているかもしれない、

親、伴侶、職場から、今現在も継続して

感じ取ってしまう否定的な感情だったり、

するかもしれません。

 

さらに言えば、否定的な感情を喚起させる

相手もまた、全く同様の状態にあることは

想像に難くない。

 

否定的な感情を喚起させる元には

直接的に自分の言動や結果への批判もあれば、

争いや怠惰、弱さ、胡散臭さを感じさせる

不快とやりきれなさがあるのかもしれません。

 

なんなんでしょうね、これ。

 

パッと思いつくのは、

 

自由という概念が広まり、

そこに貨幣という万能交換券が、

個々人にまで行き渡り、

 

私たちは思想と現実の双方で、

自由という社会の中で浮遊している、

…ように感じるのでは、ということです。

 

私たち、の中には、当然ながら、

近代国家が成立して以降の

ほとんどの人が入ります。

 

特に、都市、つまり、

古いしきたり・伝統を表に出しえない、

雑多な人々が集まる街の生活者です。

 

そして、インターネット出現後は

本当の意味での都市生活者とそれ以外を

切り離すことができなくなったので、

現代人全てが当てはまるようになった…。

 

 

『最も強い者が生き残るのではなく、

最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一、生き残るのは変化できる者である。』

 

これは、ご存知、進化論の祖、

ダーウィンの有名な言葉です。

 

私たちは時代や季節の変化に合わせて、

流行り廃りにキャッチアップし、

古い物を捨て、新しいものを取り入れ、

目まぐるしく変わる世界と社会への対応に、

それこそ四苦八苦しています。

 

そして、ある程度の

セーフティネットが築かれた社会に暮らし、

恐怖にも似た不安と、

その裏返しとも言える苛立ち、怒りを抱えて

そこに困苦の理由を当てはめて

生きているともいえるかもしれません。

 

 

生きづらい…。

 

300年前の人にはおそらくなかった感覚…。

 

生きづらいという感覚は、

自分なりにやれることをやっている、

 

でも、

 

心が安定しない、

未来が不明瞭な暗さの中にある、

 

そして何より、

 

成功者という価値観と基準を学び、

それと大きく遊離して感じられる

自分という存在が

 

あまりに不確かで

存在の感覚が軽すぎて、

巷でいうところの存在価値が感じられず、

 

それが安らいだ不安にくるまれた浮遊感となって

常に自分を包んでいる、

 

という表現が当たらずとも遠からず、

という感覚ではないでしょうか。

 

おかしいですよね。

全てはできてないにしても、

それなりに一生懸命、

やれることをやって、

不足はあるにしても

社会の中で何とか生きているのに。

 

誰が、何が、消えることのないこの感覚、

つまり、

困苦、不安、存在性の半強制的な欠如、

浮遊感、怖れ、

そういった空気の中に私たちを置くのでしょうか。

 

 

生きづらいのは、何かを見失っているから。

 

私の持論です。

 

何かが足りないではなくて、

つまり不足・欠乏、ではなくて、

見失ったから、

 

そう考えると、私にはとてもしっくりきます。

 

少し、資本主義社会の成立要件から

この話を紐解いていきましょう。

 

マックスヴェーバーだったと思いますが、

彼は著作の中で

資本主義の成立要件の一つに、

伝統主義の打破を掲げていたと記憶しています。

 

昨日がそうであったから、という理由“だけで”

明日もそうである、という伝統を打破することが

資本主義の要諦の一つだ、ということです。

 

これは、

中世に蔓延っていた理由も不明確な呪術を

人々が暮らす社会の重要項目から取り外し、

 

合理的に生きることを根付かせるうえで、

大きく役立ちました。

 

伝統主義と言うとつい、

大仰に考えてしまいがちですが、

 

親にこう言って躾けられた、

学校の先生がこう言っていた、

近所のおじちゃんおばちゃんが

いつもこうやっていた、

 

そして今も気がつくとそれに沿って生きている、

といったことは、

 

あなたにとっての伝統となりえますよね。

 

その中にはきっと、理由が不明瞭なまま

続けているものもあれば、

 

もうそんな時代じゃない、などと理屈をつけて

無事?あるいは、もったいなくも?

やめてしまったものもあるかもしれません。

 

いずれにしてもこの社会を生きる中で

無意識の矯正に基づいて廃棄してしまった

伝統(習慣、暗黙のルール、行動、考え方)が

あったとしても不思議ではありません。

 

そしておそらく往々にしてありがちですが、

これがそのまま

愛着・愛着対象の廃棄になっていることも

またあったりします。

 

例えば、大切な人との絆は、

つながりそのものが問題なのではなく、

つながり方が困苦の元となっているのなら、

 

絆を廃棄するのではなく、

つながり方を変えることが必要です。

 

でも現実には、そのどちらもなかなか大変。

 

つながり方を変えられないか、

つながりを断つか、

に行きがちです。

(それが悪い、ではなく、

一時的にそうせざるを得ない、という方に

私は共感しますが…)

 

この、愛着感の喪失が重なり積もったり、

ある一線を越えて起こったりすると、

 

先に述べた、

困苦、不安、苛立ち、浮遊感、

存在感覚の欠乏といった感覚に悩む

ことになりえます。

 

困ったことに、

例えば機能不全の家族関係のような、

修正すべき関係性さえも

私たちは愛着を感じてしまうことがあって、

 

昨日がそうであるからという理由で

明日もそうするという伝統を

廃棄することが正しいときに、

 

新たな痛みを伴うぐらいなら、と

そこに居続けたりします。

 

これは別の機会にお話ししますが、

長く続くもの・ことを正しいと思い込み、

深層意識に根付かせる性質を

私たちが兼ね備えていることにも関係します。

 

 

では、

そこから抜け出るにはどうしたらよいか。

 

答えの前に触れておくと、

これまで勉強してきた限りでは、

残念ながら

『これをすればすぐに抜け出せます』、

という方法を私は知りません。

 

ただ、少なくとも、暫定的なステップとして、

理屈だけでも頭に入れておきたいことはある。

私たちは望むと望まざるとにかかわらず、

容易に変えられない、

そして残酷にして可能性を秘めた

不安の闇とエキサイティングな空間としての

資本主義社会に生きています。

 

先に、資本主義社会の成立要件を介して、

不安定な私たちが出来上がるプロセスを

お話ししました。

 

外的な決まり事、変化に適応するうち

様々なものを見失い、

最後には、自分がよって立つ愛着まで

見えなくなってしまった、と。

 

外的な変化に適用する間に、

自信の感覚、情動、愛着と言った

目に見えず、測定もかなわず、

それでいて私たちを突き動かす

もっとも根本的・内的な要素が

適用できなくなっていた、という

本末転倒な結果が表れてきた。。。

 

そんな事情に対抗するためには

どうしたらよいでしょうか。

 

それは、

自分で決めること、です、

 

…ととりあえず書きます。

 

歯切れの悪い言葉になるのは、

それができれば、ある種、

確かに正しい答えにはなるのですが、

別の角度から言えば詭弁になるからです。

 

自分で決めることは意志の力ですが、

私たちは意志の届かない深層意識のレベルで

すでに適応障害を起こしてしまっている。

 

そんな状況で、本来制御できない

一番根っこの部分にある

感情・情動といった類を決めることなど

 

普通は期待できないと考えるのが

素直な受け止め方ではないでしょうか。

 

 

ここまで、私なりの経験と知識を絡めて

苦しさ、不安、怖れが根付き、

一朝一夕の解決が難しいことを

つらつらと述べてきました。

 

ですが、これを読んでいるあなたが、

そしてかつての私がほしいのは、

 

ではどうすればいいか、という

答えですよね。

 

この記事の題名を

『世の中の正しさに惑わされず、しぶとく生きよう』

としました。

 

しぶとく生きる、とは

誰かの目にどう映ろうが

あなた自身として生きる、ということでもあります。

 

××して変化しよう、とか、

△△を考えて幸せになろう、とか、

ポジティブ(or  ネガティブ)になって云々

とはできませんでした。

 

あなたに必要なことがあるとすれば、

いつも言っていることですが、

遠ざけている様々な自分と出会い、

受け入れて生きること、

 

無意識をあなたの願いに沿った世界

(とそれを実現するイメージ)に

書き換えること、

 

そして愛着感と原風景を取り戻して

日々を生きる基準とし、

 

取り戻したそれらの中に含まれる

哀しい・やってはいけない部分は

過去のある時期に戻ってもらい、

 

怖れや不安にさいなまれた自分と

仲良くして生きようとすること、

ではないかと思います。

 

スカッとさわやかな結果を、

それも外的な指標で判断可能なそれらを

求める気持ちが強くなりすぎて、

焦ったところで、不安も怖れも増すばかり。

 

そこには無意識の奥に

当たり前にあるはずのものが無視されていて、

自分の中のたいしてパワーのない部分だけで、

世の中を生きていっているようなものです。

 

それで元気に自分らしく生きていこうと

することの方が難しいのは当然です。

 

先に、自分で決めること、という

仮の答えなるものを、

詭弁を含むと称して書きました。

 

心の時代と言われる今世紀、

ネットの普及と相まって、

多くの“答え”なるものが視聴覚に

飛び込んでくるようにもなりました。

 

でも、それら自体が少なくとも

原家族の歴史を背負った中で

私を楽にしてくれることも、

視界を開けさせてくれることも

残念ながらありませんでした。

 

では、それらの答えなるものが

無意味化と言えば、

そうでもないと思います。

 

知っておけばいい。

 

それは感情とか奥底の感覚とか

心の原風景と言った

私たちを形作る根幹を取り戻すことには

なり得ませんが、

 

もし真に自らの内面と触れ合い続ければ

 

その時々の自分の恢復度合い、

自分の生き方への納得感といたものを

結果として知る指標くらいには

なるかもしれないからです。

 

以前、幸福学の大家である

慶応大学の前野先生の

『脳はなぜ心を作ったか』という本を

書評としてアップしました。

 

その後もご活躍されている先生は、

『心はない(存在しない)』という前提に立って

研究を続けておられます。

 

心という“存在”があるのではなくて、

(意識ではなく)無意識をもとに行っている

日々の言動、受け止め、解釈といった

個々人に特有の“反応”を眺めている

“存在”があるだけだ、とのこと。

 

しいて言えば、その、眺めている存在が

心、ということでしょうか。

 

これも以前に申し上げたように、

私たちは自分の解釈なり経験を

正しいと解釈するように、

自らの辞書を書き連ねていく

ということを行っていて、

その話とも見事に符合します。

 

だとするならば、

自分がいることが当然の場所で

自分自身の内面を表現して、

それを自らにフィードバックし、

自分を知ろうとすること、

 

それを自分の中の自分と仲良くしながら

続けていくこと、

 

その中で自分が変化していく…。

 

変化は無意識を徐々に書き換え、

内的・外的な反応、

 

つまり、

内的な反応なら、

感じ方、受け止め方、解釈の仕方、

外的な反応なら、

話す言葉、表情、身振り手振りから日常生活まで

を変化させ、

 

その一挙手一投足に至る

地味で地道な積み重ねの中で

次の変化が起こる…。

 

それが実は、

どんな派手な回答より、

有名な専門家の処方より、

あなたを充実した幸福な人生に導く

そう私は考えています。

 

ー今回の表紙画像ー

『渡辺貞夫_ベスト盤』

30年前に購入して、今も聞き続けています。他界した私の父より年上(昭和一桁生まれ!)ですが、今も素敵な音色を響かせている方です。嬉しいですね。12月にコンサート予約した!