毒親という言葉が使われるようになって
どのくらい経つでしょうか。
30年くらい前なら
ACoD(Adult Children of Dysfunctional family)
つまり、
機能不全家族で育った
アダルトチャイルド(AC)の親という意味に
含まれていたのかなと思います。
ACという言葉は、
そのネーミングのせいか、
かなり誤解された使われ方をしていました。
「大人の見てくれをした子供」と訳して、
揶揄する見方が蔓延り、
本来の意味が埋もれてしまっていました。
ACとは、
子供に必要な家族としての基本的な機能を
満たしていない育成環境で育った子供が、
その故に
肯定感というワードさえ必要ないほど、
当たり前にして当たり前に、
“そこ”で自分そのものとして、
生きていていいという感覚を
身につけられていない、
というより、
見失ったまま大人をやっている
そんな人々のことです。
(かなり個人的な意訳が入っています…)
実は多かれ少なかれ、
現代社会では誰もが抱えていたりもするのですが、
自分で自分を受け入れられていないが故に、
仕事が続かない、
自分なりのコミュニケーションが取れない、
恋愛や結婚生活が続かない、
日々の出来事が苦痛、
そもそも生きること自体が苦痛、
そういう人も少なくありません。
機能不全家族は、
お金がない、
親が食事を与えない、
躾と勘違いした心身への暴力、
必要な養育を行わない、
性の境界の逸脱、
不衛生な環境など、
書いていて辛くなるようなこと指しますが、
ライトなものまで含めて一番多いのは、
親が自ら背負うべき自身の痛みを
子供に背負わせることなのかもしれません。
一方で、そうは言っても、
大なり小なりどの家族も
どこかに闇を抱えているのも事実。
闇が大げさなら、
欠点と言ってもいいでしょう。
親もまた人間、
完璧な人なんていないから。
ただ、
子供としてはそこにいることで
感じ取ってしまう影響はありますよね。
日々繰り返される呪詛の言葉、
親自身の夢の押し売り、
家族という枠組み内に漂う
怒りと怨嗟の空気。
何より、根源的に感じている、
生きることそのものまで否定されるような
絶対的な淋しさ。
★
さて、私にも思い当たる節がある、
そう感じられた方へ。
こちらまでがそこにかまけて、
対抗しようとしている限り
どこにいようと内面は
その環境に支配されたまま。
そのことに気づくと、
次のステージに進むんです。
……などという言葉は、
とりあえず脇に置いておくとして、
振り返ってみて、
そんなとても辛い時間の中で
あなたの内に感じていた力はないでしょうか。
力というと、
世の中で何かを達成したとか、
人の中に受け入れられたとか、
資格を習得したとか、
そんな方向に行きがちですが、
本来生きる環境の不備に対して、
文句も言えずに生きてきて、
それでも生きて今にある。
…凄くないですか?
客観的に見て(見られないだろうけど)。
凄い、ということを
自分以外の別の誰かから
言われたいのかもしれないけど。
認めてほしいのかもしれないけど。
凄くなくていいから、
そんなことで褒められなくていいから、
弱い部分の自分も包んでほしかった、
そう感じるからなのでしょう。
いずれにせよ、そうやって生きてきて、
今もまだ、
動く身体とこの文章を読む頭がある。
世の中との接し方、
自分を含めた人の見方が
子供時代の環境的な歪みに起因しているなら
そういった環境に生きてきた人が、
年齢的に成人しただけで、
急にその歪みからの影響をなくして
生きられるというのはあり得ませんよね。
要するに、
大人の年齢になって社会に出たところから、
新しく懐かしい、
慣れ親しんだ葛藤が始まります。
社会に出て生じる問題の根底には、
生まれ育った環境がもとで、
身に沁みついた感覚による部分があって、
忌み嫌いながらも、
そこに『しがみ付いて』生きている
自分に一体化したまま、
もう一人の自分として出会えないでいる。
ほんとうは、
“そこ”で格闘することが、
“そこ”に留まる条件を必死に探しているということ、
そんなものは本来存在しないとういこと、
そして、とても面倒くさいだけの思考だと気づくと、
新しい扉を探り当てられるのだけど。
「あ、何をするにも人より耐性あるんだ」と。
いやいや、そんな耐性いらない、と
言われるかもしれません。
耐性を働かせるような場面に
居たくないのもわかります。
でも、まずは事実は事実として、
なかなか表に出てこない部分を
認識しておきましょう。
これは、年を取ってから気づいたことだけど、
腹を立てて自暴自棄になったつもりでも、
人の中に暮らすことを許されないほど、
社会から逸脱することなく、
生活している自分て何なんだろう、
そう思い返したとき、
自分の胸の中にはすでに、
似たような問題が起こっても、
それと同居しながら、
葛藤を抱えながらも、
生きる力が根付いているんだ、ということ。
フラッシュバック的に毒が襲ってきても、
類似の出来事が必要以上に不幸を感じさせても、
自分自身を感じられない生活が続いても、
何とかあきらめることなく
生きている自分がいる。
傍から見ればちっぽけでつまらない日常だとしても、
明日の光が見えなかったとしても、
この世界の片隅に
ひっそりと生きられる自分がいる。
自分には人一倍耐性があるんだ。
そう感じられるなら、私もうれしいです。
私自身もまた、そう思えたとき、
本質的に行動が変わりました。
ささやかながら続けているこんな発信もまた、
そんな行動の延長の結果なんです。
ー今回の表紙画像ー
『宇佐美海岸夕景』
遠くに大島が見える。
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