寂しい・傷ついてつらい

日々の棚卸

寂しいと傷ついてつらい。

 

寂しいは、誰にでもある(はずの)日常的な感情。

爆発しそうに、とか、もう駄目だ、とか、体が震えて身動きが取れない、とか、そこまでいくとトラウマティックな匂いもするけれど、ふと寂しい、ちょっと寂しい、もの哀しい、という大人が持つ感情でもあります。

 

傷ついてつらいは、自ら処理できる容量を超えて生じる感情で、原因が自分であるにせよ、他者であるにせよ、あるいは何かの仕組みのためであるにせよ、これが続くと普通はまいってしまう。俗にいう、抑うつや気分障害などの症状、本当にひどい時には鬱や自殺衝動へとつながることもあります。

 

寂しい。

傷ついている。

隔たりがあるように感じられる二つの感情。

時々、くっついてしまっている人がいる。

寂しい⇒傷ついているってストレートに思考なり感情なりがつながってしまう。

寂しい、に耐えられなくて。

寂しい、が身体的な症状を引き起こして。

寂しい、がパニックを伴って。

時には、さらに進んで、怒ったり、恨んだりしてしまう人もいる。

 

実際には、

寂しいという感覚をきちんと感じられている人

何か別の感情と勘違いしている人

そもそも無視している人

反対に寂しさに押しつぶされてしまっている人

いろんな人がいる。

 

文字通り人を求めているのに誰も周囲にいない。

周囲にいるけれど知っている人がいない。

コミュニケーションをとっても分かり合えない。

大勢の知人の中で孤立している感じがする。

それらは理由はどうあれ、寂しいということでしょう。

あるいは哀しいということ。

それ以上でも以下でもない。

つらいかもしれないけれど、誰かに傷つけられたものじゃない。

誰かのせいなんかじゃない。

 

そこに、自分の内側に潜む『卑下』や『のけ者にされた感』が割り込んでくるとおかしなことになってしまう。

でも、往々にして、私たちはそうなりがちではないでしょうか。

あまりに真摯に向き合い過ぎて、自分は病気じゃないかという人もいる。

もう一度言うけれど、往々にして持ってしまう感覚だと思うのです。

その感覚、もちろん、自分の中で対処できるに越したことはない。

だって、いつも言うようにそれこそが自分を受け入れるということだから。

 

私はいらない存在なのだ。

私は遠ざけられて仕方ない。

私は無能だ。

私は役立たずだ。

孤立したり、見捨てられたりした経験のある人に限らず、陥りがちな“妄想”や時には“事実”。

 

きちんと感じられているかどうかは別として、寂しい、は誰もに備わる感情です。自分が暗にイメージしていた現実から乖離して孤立した感覚に包まれると、つい感じてしまう感情でもある。

本当に、それだけと言ってしまえばそれだけのことです。

熱帯夜が終わって穏やかな秋が来た時、それまで所属していた学校や会社を去る時、いつも横にいた人がいなくなった時、何となく期待していたコミュニケーションが得られない時、自分の存在が軽く感じられて仕方がない時…。例を挙げれば限りないこういった寂しさは私たちの日常の一部です。

それを、「傷ついた」「傷つけられた」と持って行ってしまうとき、話がややこしくなる。

それは、明らかに自ら演出したフェイク。

「違う。実際に傷つけられたんだ」

「こんなひどいことされて、あんなズルいことされて……」

そこだけとればきっとそうなのでしょう。

そこに至る流れや、あなたのモノの見方、受け止め方、こういうときはこうなるという価値観などの一連のコンテキスト=文脈からその部分だけを抜き取ってイメージ化すれば、きっとおっしゃる通りだと思います。

でもね、事実は後からいくらでもついてきてしまう。

というより、そういう事実を拾い上げるあなたを拡大再生産している、と言った方が正しいかな。

不思議でしょ。

まごうことなき事実を見せて自分の正当性を示しているつもりなのに、まるでそれを自分が作り上げたかのように言われるなんて、心外ですよね。なんてひどいこと言うんだろうって、書きながら私も思ったりするくらいなんだから。過去に自分がそうやって随分必要のない闘いをしたことを思い出しもします。だから首を縦に振って、あなたは正しい、と言って済ませてしまいたい。

でも、やっぱりもう一回同じことを言わせてもらいます。

それは、あなたと周囲が共同で生み出した事実なんです。

きつく聞こえたらごめんなさい。

私をなじるのはともかく、この関連性を頭の片隅に留めておいてください。

確かに、外部からそんなあなたを弄ってしまうアホがいるのは事実。

そういうのはアホなんです。あなたを弄る低能なアホなんです。

じゃ、なぜそんなアホにいじられる必要があるんだろう。

考えたことありますか?

そういうのに弄られないために、そういうアホをスルー出来るくらい、自分と自分を親密に保てるといいですね。

 

寂しい、の話に戻りましょう。

生きるということは、寂しいことです。

そう言う意味での寂しさは、きっと

あなた特有の寂しさで、

あなたらしい生き方が眠る宝庫で、

そこにしっかり向き合って行動するとき、

あなたが願っても無理と閉じ込めてしまっていた世界と対面する機会が訪れます。

“しっかり”が大切。

だって、そうでしょう?

対面するのはもう一人のあなた。

あなただって、適当に接してくる誰かに真摯に対応します?

 

寂しい、は、時々、胸が痛い。

寂しい、は、時々、寒い。

寂しい、は、思わず遠ざけたくなってしまう。

意外に忘れがちだけど、寂しい、は、原風景の温床でもあるんですよ。

 

だから、最初は感情が受け付けなくても、わかっておいてください。

寂しい≠傷つく

寂しい≒哀しい

寂しい=自分自身

 

寂しい、という感情を遠ざけることなく、きちんと感じて、それを大切に扱ってください。

寂しさのない人生に、歓びはありません。

寂しさのない人生に、感動もありません。

これほどあなたらしさを象徴する感情はなくて、とても大切な心の動きです。

社会に出ると、マッチョイムズにおかされると、フェイクに惑わされると、見失いやすい感覚。そして、これからを生きていくとき、常に傍らで見守ってくれる存在。

 

寂しいという感覚を大切に。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『月夜の海 東伊豆 1』