生き方も働き方も、
最後は自分で決めるんだ、
何度かそう言われたことがあります。
進学や就職や大切な人との別れや
そんな人生の岐路で相談させてもらった
先輩や先生や友人、専門家から
最後には口をそろえて
そう言われました。
「自分で決めるんだ、か」
その場は何となくそう受け止めて、
確かにそうだよなと思う反面、
正直なところ
決めろって言われたって、
どうしたらいいかなんて
わからないよ、
と思ってもいました。
今にして思えば、
答えがないはずのところに
何か理屈や論理で見出せるような
答えがあるものだと思っていて、
その答えが自分の知力や感覚では
導き出せない、見えない、
そう思い込んでいたことが
「わからないよ…」の真意だったのだと思います。
世の中には、
知りたいかどうか、
あるいはセンスの有無は別として、
最初は教えてもらわないことには
わからないことが
人それぞれ、様々にあります。
算数の問題の解き方から、
流麗な恋の始め方、
飛行機の操縦方法、
スマートな働き方、
スムーズな人間関係の作り方、
ブラックでない高収入の得方、
幸せな家族の作り方、
……。
上述のどの項目も、
ハウツー本もネットの記事も
たくさん出ています。
私の場合は、
何度かお話しさせていただいているように、
なぜ毎日の生活がこれほど息苦しいのか、
仕事が手につかないのはなぜか、
いつも得体のしれない焦りと恐怖に
苛まれているのはなぜか、
そういった点から必要な情報を求め、
見つけた本やネットのページを読み漁り、
セミナーにでかけたりしました。
得られる情報、学べる知識は
それこそピンキリでしたが、
上質な内容のものであれば、
個人の資質に深く切り込んで
説明していたりして、
その時々の自分の状況を
よく知ることができたものも
多々ありました。
ですが、やっぱり
「わからないよ…」
そうつぶやく自分がいたのも事実です。
怖かったのかもしれません。
「わからないよ…」
たとえ自分のことであっても、
やっぱりわからないことはある、
いや、自分のことだからこそ、
他人以上にわからないことがある、
というのは一面の真理だと思います。
しかもそれは、
上述のセミナーや本で学ぶことができる
どんな上質な知識や説明よりも
自分が生きるために必要な
力の根幹をなすことだったりするから、
「わからないよ…」と言っているだけでは、
根本的な解決になりえない。
「わからないよ…」
「教えてもらっていないから…」
人生の節目や何かの選択が必要な時、
つい、そんな弱気に絡めとられて
ふさぎ込む日々を送ることもありました。
社会人になった後も、
長くそんな状態が続きました。
そんなある日のこと、
高校時代の友人から
電話がかかってきました。
とりとめのない、懐かしい話に
花が咲いたのですが、
なぜかその時、私の頭の中に、
数学の授業の風景が思い浮かびました。
1年生の時の数学担当は、
180㎝を超える高身長の中年女性で、
その人が私たち当時の生徒に向けて
若干の苛立ちを込めて
言ったことがあります。
あまりに受け身で
のんべんだらりとした態度で
授業に接していたことに
業を煮やしたのかもしれません。
彼女はこう言いました。
「あんたたちね、
そうやって課題を与えられるのを
待っててばかりでどうすんの。
自分から何も動こうとしないで
数学ができるようになるわけないでしょ」
若干の苛立ち、と書きましたが、
文字に起こしながら、
あの先生、結構むっとしていたな、と
思い出してきました。。。
そうは言っても、
当時の私たち生徒にとっては、
授業は与えられるもので、
率先して何かを獲得しようと
息まいているほんの一握りの
生徒たちを除けば、
大概の内容は右から左にスルー。
半分居眠りしつつ、
ぽかんとした時間を過ごしながら
なしくずし的に授業も終了しました。
話しは変わるようで、
実はつながることですが、
私たちが生きる社会には
たくさんの学ぶべき“点”が
打ってあります。
そして、
この“点”と
この“点”、
それから別のあの“点”を学び、
それらをつなぐ線を理解すると、
その構成から、
一つの、あるいは複数の
システム、働き方や収入の得方など、
それらにつながる仕組みのようなものが
出来ています。
先の数学の授業ではありませんが、
英語や数学や国語や体育といった
カリキュラムにしても、
英検や社労士や教師といった資格にしても
税金や選挙や法律といったルールにしても
それこそ数えきれないほど多くの
既存の“点”が社会には打ってあって、
私たちはその中の幾つかの“点”を通って、
そこから職業や働き方や生き方を
選択するようになります。
既存の“点”の選択には、
家庭環境やその時々の風潮が
影響していることもありますが、
ともかくも通ることができる“点”は
時間的、環境的、思い込みなどから
ごく限られていて、
そうであるにもかかわらず、
それがあたかも自分の生きる
世界の全てと勘違いして、
それ以外の未経験の“点”も
自分の知る範囲から類推可能で
新たに試す価値がないと思い込んで
半ばあきらめながら、
文句を垂れ流しながら、
惰性で生き続けることがありします。
「わからないよ…」
「教わってないんだから…」
数学の授業で先生が
惰性だとか、文句たらたらとか
言いたかったのかはわかりません。
ただ、私自身が
自分の納得する人生を生きようと
気持ちと気概と生き方を変えるために
試行錯誤するようになってから
気づいたことがあります。
それは、
行き詰った状態、
魂が死にかけている状態から
脱しようとするとき、
そこに必要なことは、
新しい“点”を探して、打つ、
そしてそこに新しい道を作る、
それを繰り返す、
それに尽きるということです。
“点”は決して遠い場所である必要はない、
むしろ身近なすぐ隣でもよい、
大嫌いな仕事や、
ブラックな会社に勤めていて
怒りと疲労が取れない状況の時には
ついそこからかけ離れた何かを妄想して
“点”の選択内容まで、
いっときの快楽の範疇に逃れがちですが、
ヒントの多くは足元にあるものです。
ブラック企業とそこからの脱し方については
また別途お話ししますが、
ともかく、やるべきことは、
まず今の自分の中に渦巻く
怒り、蔑み、あきらめ、しんどさ
そういったものを脇に置いて、
(消すことはできないでしょうから)
“決める”ことです。
自分は新しい人生を生きるのだ、と。
自分は望む人生を手にするのだ、と。
その上で、
日に10分でも20分でもいい、
新しい“点”をまず打ってみて、
そこにつながる道を作ってみるのです。
試しでいいのです。
当然そこには、
ボタンの掛け違いもあるでしょう。
痛みも味わうかもしれません。
効果が感じられないというパターンが
一番多いと思います。
でもそれも含めて、自分だけの
オリジナルの歩みの始まりです。
“点”は
新しい仕事のジャンルかもしれない。
部署転換かもしれないし、
転職かもしれない、
起業することかもしれない。
しばらく働かないことかもしれない。
体を使うことかもしれないし、
趣味かもしれない。
ネットにかじりつくことかもしれない。
いえ、仕事に限りません。
男の子(女の子)に話しかけてみることかもしれないし、
暮らす場所を変えることかもしれない。
ポイントは、
今自分を苦しめている何かを変えるための
“点”を打つのです。
誰かのせいにして、
やらない、文句、愚痴、無理と
逃げていると、人生は変わりません。
“点”を打って、道を作る。
その道が続けられるなら、
その先にまた“点”を打って、
さらに道を作る。
続かない、ちょっと違うなと思ったら
別の“点”を打つ。
それができるようになると、
自信のなさや怖さまでが
味方になってくれます
(彼らは消えませんよ。
自分の一部なのですから)。
動くためのエネルギーにさえ
なってくれます。
新しい線が出来上がって、
新しい未来に光が見えた時、
惨めだな、嫌だな、格好悪いな
そう思っていた自分が自分の一部として
とても大切だったことに、
そして無駄なことは何もなかったことに、
気づくはずです。
ー今回の表紙画像ー
『曲り道?』
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