友人が腰を傷め、検査した結果、
理学療法を受けることになりました。
家の近所の整形外科に通って、
理学療法士さんに施術を受けるそうです。
療法士さんは20代~30代前半の若い方で、
施術されながら世間話にふけるそうですが、
小さな驚きがあったとのことでした。
意外なほどに世代間ギャップを感じない
というのです。
彼がそう感じた理由は、
人生の岐路における選択の仕方が、
似ていると感じたからだとか。
どこが似ているかというと、
学校にせよ勤め先にせよ、
好きなことよりもネームバリューや給与で
決めてしまう人が多いというところ。
…。
公のシステムが戦後変わってないのだから、
そういうところで差異がないのは当然なのでは、
と思ったのですが、
口には出しませんでした。
療法士さんご自身はというと、
ご両親が理学療法を必要としたことが
この道に入るきっかけだったそうです。
人生の岐路における選択で、
迷いがなかったあまりない例で、
友人と二人、孝行息子なんだなあ、
若いのにたいしたもんだ、と、
ばっちり爺さんのセリフを口にしていました。
★
何をして生きていくことが幸せか、
人それぞれなのは言うまでもありませんが、
少なくとも当人にとっての“夢”を描いて
追いかけていく過程と達成のプロセスは
その一つだと思います。
ただし、この夢が自分以外の誰かや
周囲、社会的評判を気にしたものならば、
どこかで壊れる可能性が高いか、
その“夢”にのめり込むこと自体が難しくて、
成果を発揮できないことから、
うまくいかないか、
成果を出す代わりに健康や人の関係が
おかしくなってしまうことは
今ではよく語られる話だと思います。
だから、できることなら、
自分の内側から湧き出てくる“夢”を描いて、
夢中になって、
没頭できるような人生を歩みたい、
というのは、
多くの人が願うことなのかもしれません。
夢中になっている様子を端的に表現した
松任谷由実さんの名曲
『守ってあげたい』では、
一番の歌詞で
『遠い夏、息を殺しトンボを捕った。
もう一度あんな気持ちで夢を捕まえてね』
二番の歌詞で、
『日暮れまで土手に座りレンゲを編んだ。
もう一度あんな気持ちで夢を形にしてね』
と歌っています。
もう40年以上前の歌なんですね、この曲。
…いい曲だなあ…。
誰もが憧れる生き方の根っこである、
夢中になることを感覚的に蘇らせてくれる
ヒントをくれていますよね。
全員ではないにしても、
多くの方が、子供の頃、若い頃に体験した
素敵な感覚を表現している。。。
いいなあ。
…しつこくてすいません…。
こういう感覚を持った若者を入れて、
自社を元気にしようと試みる多くの企業が
勘違いしている、と、
元吉本の芸人さんのマネージャを務めた
大谷由里子さんは著書『元気セラピー』の中で
語っています。
何を勘違いしているかというと、
『若いのが入ったら元気に動く、
と思ってること。
若いのは好きなことやってるから
元気なのであって、
やらされてて元気はない。』
と至言を述べておられます。
★
私たちはいつも思い通りの道を進める、
というわけではないどころか、
多くのことは思い通りにはいかないし、
時には自分が原因を作ったわけでもない
辛さ哀しさによって、
迷宮の中に取り囲まれてしまったり、
何だかつまらない日常に身を置いたりする
羽目になりがちです。
その一方で、前述の二人以外にも、
私たちの日常生活のあちらこちらに
幸せに生きるための、
夢中を獲得するための、
ヒントがちりばめられてもいます。
ヒントは、
時に華やかな表現だったり、
キャッチーなワードだったり、
もしかすると
拙ブログもその一端にある、稀有な方も
おられるかもしれません。
でも、
“夢”はなかなか描けない…
でも、
夢中にはなかなかなれない、
夢中になったつもりが
勘違いだったり…
私たちが“夢”を描いていた頃として
思い出されるのは、
たいていが子供の頃です。
小学生の頃かもしれないし、
ティーンのとても感受性の強い頃かも
しれません。
もう少し歳をとって、
20代前半の方もおられるかもしれません。
一方で30歳を過ぎ40歳を過ぎると、
その頃のような形で“夢”を描くのは
大変であることが普通だと思います。
なぜなら、
無限と思っていた時間は消えているし、
思い通りからは程遠い人生を歩んで
自信を失ってしまっているし、
どんな境遇であれ、
仕事上の、あるいは社会的な
責任は大きくなるし、
誰かがいい子いい子してくれる
年齢でもないし…。
んん、何だか本当に厳しいですよね…。
与えられた環境で何の心配もなく、
“夢”を描けるのは
子供の頃だけのことだから…。
でもこれ、実は、あることに気づく、
とても良いチャンスでもあるんです。
大人になった私たちにとっても、
特に今、日々を彷徨っている人にとっては
子供の頃の感覚はとても大切で、
心の中にいつも感じられるように宿して
それを灯としながら生きることです。
その感覚を信じながら、
大人のあなたが、
苦しみ哀しみ失敗だらけで格好悪くて
惨めに感じて思わず突き放してしまう
自分を受け入れ、
時に、難敵をやり過ごしながら、
時に、ピンチをチャンスに変えながら、
時に、休息を取りながら、
『トライアルを続けること』。
トライアルというのは、
これが“夢”かな、と
試してみることもあれば、
“夢”も見つからないまま、
いつも叱られてばかりでも、
うまくいかない時節はあるよ、と
自分を慰めながら、
人とのコミュニケーションを遮断することなく、
一見手詰まりの環境の中にもヒントがないかと
アンテナを立ててみたり、
まったく気分を変えて山や海に
繰り出してみたり、
…
つまり、行動や、理解や、感じ方の変化から
自分なりの試みをして、
すぐに結果が出なくても、
自らを傷めつけないように、
ささやかな楽しみの予兆を求めるように、
瞬間瞬間の自分に寄り添えるように、
そういった小さな実践の積み重ねの上に
大人の自分がしっかりと地に足をつけた
“夢”が見えてくる、
あるいは
いつの間にか夢中になっている、
ということだと思うのです。
私たちが望む人生を歩むためには、
行動、考え方、受け止め方、感じ方の
『実践の継続』と『あきらめない工夫』
が欠かせません。
これを人によってはあがきというのかも
しれませんが、だとするなら、
自分なりに精一杯あがいてみることは
自分が納得する人生を生きる上で
これほど大切なことはありません。
それからもう一つ、
『今』の中に、“夢”の『芽』を見いだすこと。
これらを、
自分に許された範囲でできることを
日々コツコツと続ける、でいい。
この継続の中には、
自らの受入れもあれば、
素の自分との邂逅を求めることもありますが、
それらを含めて、遠い未来や遠い場所、
全く別のどこかに意識を飛ばすことを
少しだけ控えて、
『今の環境でできること』を地道に繰り返し、
状況が変わった時には、
自分も変わっていた、
という結果を
思い描いてみてはいかがでしょうか。
今感じていることのもう一つ外側を求め、
今目の前の環境を無下に否定せず、
今を生きることで自分をよくすることを願い、
そのためにできる工夫を
自分なりに考えて
行動にうつす。。。
どうか、
右往左往してみてください。
そこで起こることを
単にうまくいかなかった、
また嫌なことが起こった、
と捉えるのではなく、
ほんの少しだけ、
楽しみを見いだす時間、解釈を変える時間に
割り当ててみてください。
そうすると、まるで永久に今の嫌な時間に
固定化されてしまうと勘違いする人が
いるようですが、
実際にはその反対のことが
じわじわと現実にしみ込んでくるものです。
私も偉そうなことは言えません。
つい現実逃避をしたくなることもあります。
時には現実逃避もいいのかもしれませんが、
そればかりが続くと
やがて立ちいかなくなる…
と断言するつもりはありませんが、
逃避しなくてもいい日常を送りたいですよね。
とりとめがなくなってしまいましたが、
駄文のエッセンスを汲み取っていただければ
嬉しいです。
ー今回の表紙画像ー
『遠い富士山夕景』
我が家の川べりからは小さく富士山が見えます。
夕景はいいなあ。
ハゼ釣りに行ってきた。明日の夜に一杯やろう。
久々に日曜に行楽地に出かけてへとへとだ。
遊びに行くのはやっぱり平日がいいですね。。。
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