記憶能力は愛着感に由来する

日々の棚卸

 

脳は使えば一生衰えないと言います。

 

反対に、

年を取ると記憶力が低下する、

とも言われます。

 

働き盛りの年齢やそれより若い方で、

若年性認知症のような

病気・疾患でもないのに、

記憶力が衰えたと感じている方もいます。

 

 

覚えなくてはいけなくても

興味がないと覚えられないことは

実際のところ多々あります。

 

一方で明日の飯にも困れば

飯のために必要なことは、

強制的にでも覚えます。

 

ただ、

脅迫的に頭に叩き込むことを続けると、

やがてその“つけ”が

心の世界を歪めていきます。

 

 

以前よく、

心情的メカニズムというものを想定し、

記憶能力について考えていました。

 

心情的メカニズム?

何だ、それは?

そう思われたかもしれません。

 

人間は機械ではないので、

情報を、

キーボードで打ち込んだり、

マウスでドラッグ&ドロップするように

物理的な働きかけを自身に行えば、

必ず記憶に定着するとも限りません。

 

同じ人でも

記憶力が良いときと

そうでない時があります。

 

そこには、純粋な身体機能以外の

記憶のメカニズムが働いていて、

それを心情的メカニズムと考えました。

 

年を取ると記憶力が

本当に低下するのか、

個人的には懐疑的です。

 

といいつつ、私自身、

記憶力が随分低下したなと

感じた時期がありました。

 

三十代の頃のことです。

 

三十代で記憶力の低下もないもんだ、

と思われるかもしれませんが、

当時は真剣に悩んでいました。

 

気合いと根性と叱咤で覚えてきた

仕事や技術に関する数々のことを

思い出せないのはもちろん、

ついさっき聞いたことでとても

大切なお金や計画の話まで忘れてしまっている。

 

それも、ホントにきれいさっぱり。

 

よくメモの重要性が言われていて、

私も試してみたのですが、

そもそもどこに書いたか、

あるいは書いたこと自体を

忘れてしまうんですね。

 

1つや2つなら、

何とかページを繰って

あ、これかと思い出せますが、

 

それが何度も何度も続くうち、

その繰り返しそのものに疲弊し、

嫌気がさしてきてしまうんですよね。

 

最初は、

飲み過ぎや寝不足のせいだと考えていました。

つまり日々の生活習慣が問題なのだ、と。

 

きっと幾分かは原因だったでしょう。

 

次に、好きでもないことをしているから、

と考えました。

 

おそらくもう少し大きな原因だとは思います。

 

でも、その状況で働かざるを得ない人は

たくさんいらっしゃるし、

その中でもそこそこ記憶能力を発揮して、

幸せに生きてる人も

また少なからずおられます。

 

何が違うんだろう、そう考えました。

 

行き着いたのは、『愛着感』です。

 

ここで述べる『愛着感』と言う言葉を、

誤解なく理解いただくために、

少し説明させてください。

 

愛着と言う言葉は、

精神医療の世界では、

アタッチメントとも言われます。

 

アタッチメントとは、

親(養育者)が“適切に”子供に世話を焼く

というニュアンスでしょうか。

 

子供に対する食事や病気のケアなど、

日常的な世話のことから、

挨拶や会話、ある種の親ばか的な行動、

年齢や気質を考慮した子供の感情のケア

などのことですね。

 

将来を想定した教育やお金の工面なども

含まれるのかもしれません。

 

実際の親がどうであったかはさておき、

私たちが生きる世界を

 

どう見るか、

どう感じるか、

どう解釈するか、

 

そして、

どう生きるか、

どう反応するか、

 

といったことは、

与えられ、感じ取り、『内在化』された

愛着の感覚にのっとり、なされます。

 

このようなアタッチメントが

子供に有効な期間は、

通常15歳くらいまでで、

それ以上の“世話焼き”は

有害にさえなりうるとも。

 

そのために必要なことが

脱愛着=デタッチメント、

つまり、子供を一人前の大人として

扱うこと。

 

もっとも、徐々に、ですが。

 

繰り返しになりますが、

特有の環境下で与えられたアタッチメントをもとに、

私たちは独自の世界観を形成しました。

 

それがある時、ある出来事を皮切りに、

臨界点を超えてしまうことがあります。

 

それが言い訳できるかはともかく、

耐えきれない寂しさ、苦しさをもたらし、

それを感じられる余裕、キャパシティ不足の故に

ある種の記憶力の低下をもたらす、

 

そんなことが誰にも起こり得ます。

 

一つの出来事で起こることもあれば、

継続して蓄積された何かの故に

起こることもあるでしょう。

 

例えば、突然両親が離婚したり、

片親の浮気が発覚して

家庭内に不穏な空気がもたらされたりすると

子供の成績が急に下がることがあります。

 

“大前提”が狂った状態で

勉強も学校生活もあったものではないでしょう。

 

これはその典型です。

 

どれだけ一生懸命に働いても、

生活が豊かにならない、

蔑まれてばかり

自分の求める日常が得られない、

 

そういったことが続けば、

記憶する意味に疑問が生じたりします。

 

記憶能力の低下にはそんな、

もう一段階心の奥底に生じた変化が

関係していたりします。

 

これ以上の痛み、辛さに耐えられないと

判断した無意識の働きともいえるでしょう。

 

覚えることが苦痛をもたらす、

と無意識が解釈すれば、

痛みを減ずるために、

記憶“しない”ようにします。

 

錯覚と言った通り、

その関連性はフェイクで、

そのさらに奥に見失ったものがあるわけですが。

 

行き詰って、どうしようもない。

何をやっても辛さが増す、

でもどうしたらよいかわからない。

 

そんなとき、

人が持つ機能に“麻痺”と言うメカニズムがあって、

それが記憶能力を低下させることは

十分にあり得ます。

 

どうしたらよいのでしょう。

 

 

毒親と叫んでも、

未来は変わりません。

 

仕事のつまらなさ、

上司の残酷さ、

給与の低さ、

 

そういったことに愚痴を流しても、

明日は変わりません。

 

つらつらと書いてきた、

前述の“解析”を行うだけでも

世界は変わりません。

 

行動を変えろとよく言われるのは、

そんな理由からでしょう。

 

ただ、内面の変化がないまま行動を変えても、

受け止め方、次へのつなげ方が変わらない。

 

生きている私たちは、

誰もが過去と未来を持っています。

 

私たちが苦しいのは、

苦しくない状態を経験しているから、

私たちが不幸なのは、

幸せだったときを知っているから、

 

と折に触れてお話しさせていただいています。

 

第1段階ではまず、

自分が行き詰った状況にあることを

しっかりと認識してください。

 

次に第2段階では、

その理由を問うてみて、

あなたなりの答えを探してみてください。

 

ここまではよく言われることです。

 

第3段階では、

あなたが生きてきた

各時代ごとに、

『良いこと』を『思い出して』みてください。

 

おそらくここに来るまでは、

そんなものはない、

そんなものは終わってしまって関係ない、

のどちらかで済ませていたはずです。

 

そんなことはありません。

終わってもいなければ、

関係なくもありません。

 

悩み苦しみ辛さでもがきながら、

明日の光が見えない私たちが

少しでも生きやすくなるために必要なこと、

 

それは、この世界に対する『愛着感』を

取り戻すことなのです。

 

行き詰った今のあなたの、

 

その活動は、

その発想は、

その考えは、

 

何がもとになっているでしょうか。

 

薬を飲んだり、診療を受けたりしても、

病名ばかりで一向に良くなる兆しがないなら、

考えてみてください。

 

愛着感、

そしてそこに描かれている原風景。

 

好きも得意も

そんなところに眠っていたりします。

 

ー今回の表紙画像ー

『北斎展に行ってきた』

すみだ美術館で開催中の葛飾北斎の絵画展に行ってきました。

江戸時代の風俗は知っているようで知らないもので、200年ほど前の庶民の日常を描いたディテールに、絵心は全くないものの、とても感動しながらながめておりました。徳川の歴代の将軍よりも現代の私たちは楽な暮らしをしているけれど、一方でこの時代にはすでに庶民が楽しむための様々なツールが出回っていたことを、いくつもの絵が伝えてきていました。

それにしても北斎、90歳まで生きて、その間に残した作品数は半端ではありません。海外でも漫画の祖として紹介される本が出回っているなど、絵画以外でも有名な北斎。私はと言えば、有名な富嶽三十六景の一枚だけ、どうしても富士山が見つけられず、絵を食い入るように見つめながら、周囲から冷めた視線を注がれておりました。

時間の都合で完全には見切れませんでしたが、また行ってみたい場所です。

これは、展示会質の入り口に合った撮影可の絵です。何の絵だったかな。。。記憶能力が低下している。。。