記憶は嘘をつく? - 哀しい記憶のすぐ隣にある大切な想いを認めよう

日々の棚卸

 

年齢はさておき、

何だか物覚えが悪くなったなと

感じることはありませんか。

ついこの間まで思い出せていたことが

なぜか鮮明に蘇らなくなっている。

私の最初の記憶では、

30代前半でそう感じたことがあります。

「あれ?

50代で若年性のアルツハイマー症になる

と聞いたことがあるけれど、

もしかして超々若年性だったりとか?」

そう思ったりしました。

 

自分で作った資料を格納しておいて、

その内容はおろか、

そこに置いたことさえきれいに忘れて

「これ、あの時君が作ったものだろう」と、

当時50代の上司に

指摘されたこともありました。

言われてフォルダをのぞくと、

確かに自分が作った資料が。

保存者も自分の名前。

でも、頭の中では

「確かにこんなものを作っていたような

気はするんだけど…」

とディスプレイ上でまじまじと

その資料を見ながら、

やっぱりうろ覚え。

その時は怒られたわけではなく、

次の打ち合わせで

そのまま使いたいから、

詳細を説明するように求められた

という経緯だったと思いますが、

それにしてもよく覚えていない。

 

機能能力の至らなさに、

我ながらあきれたものです。

 

これは仕事上の話ですが、

同じことは、過去の感情についても

言えると思います。

こちらの方が

おそらく、いえ、間違いなく厄介。

過去の嫌な出来事が

ことごとく自分を追い詰めて、

今に集中できないこと

例えば、

仕事に力が発揮できなかったり、

自分が何をしたいのか感じられなかったり、

依存症やメンタル疾患になったり、

つまり嫌な記憶が元となって

過去の感情に縛られていることは

よくあります。

このとき、

過去の“嫌な”出来事は

どこまでが事実で、

どこまでがフェイクなのでしょう。

「人がこれほど苦しんでいて、

これほど辛いと言っていて、

鬱や自殺にまで追い込まれる状態に

なっているのに、

フェイクなんて言うな」

そう言われる方、ごめんなさい。

私もかつてその一人でしたので、

気持ちはよくわかります。

その上で、ほんの少しだけ、

耳を傾けていただけたら、

と思います。

 

私たちは自分の記憶と欲求に従って

生きています。

時に記憶が欲求を生み、

だから過去の記憶に沿って、

あることをしている時は楽しかったり、

相手の言葉や態度から

見捨てられることを恐れて

人より過剰に反応したり、

していることが

人それぞれ、

あるのではないかと思います。

ですが、私たちの記憶というものは

とても曖昧なもので、

しかもある一側面だけの記録によって

自分の感情や解釈を決定していたり

することは、

大切な記憶ほど起こりがちです。

過去の記憶、

ことに自分が

心に傷を負ったと感じている記憶の中には、

どうしても、

正確に、

事細かに

覚えていないものがあるし、

今に影響を与える重要なものほど

その傾向にあるということです。

 

これは、生きていくために

私たちの無意識が操作した

知恵のようなもので、

語弊があるかもしれませんが、

哀しいこと、

残酷なこと、

苦しいことを、

その時々の自分にとって

“都合がつくように”

改変しているわけです。

 

この説明をどうか、

批判とか悪いこととか

思わないでください。

 

私たちの体(記憶機能もまた体の一部です)は、

私たちが生き続けられるように

機能するようにできています。

人間が他の動物と異なるのは、

特にエピソード記憶と呼ばれる

一連の経験を集約した記憶が

体が生き続けることに

色濃く影響することで、

その記憶に働きかけ、

生きるために必要な構成にして

脳の中に根付かせ、

体の感覚に宿らせるようになっていて、

この構成自体、

体が生き続けるために

長い時間をかけて進化してきたものです。

 

思い出したくない過去に対する記憶を、

そのまま頭から信じて

今の自分の受け止め方や

周囲の見え方、

ものごとの解釈に影響させたり、

感情を揺さぶらせたりする

これまでの生き方は、

従来の記憶の解釈の強化には

つながるかもしれませんが、

体が生きるために根付かせた

仮の過去によって、

今度は自分の魂を

傷つけることになりかねません。

 

そこに気づいてください。

 

そして、今自分を苦しめている記憶に

深入りする前に、

実践すべきことがあります。

まずその記憶に苦しんでいる自分を

体の反応も、

湧き上がる感情も、

これまでの失敗も、

今の不安も、

丸ごと受け入れることです。

 

記憶の元となる

悲しみや怒りや苦しみの裏側には

必ず、

怯えたり、

嫌ったり、

蔑んだり

している自分が潜んでいます。

そんな彼・彼女ともう一度会って、

しっかりと受け止め、

自らの大切な一部として受け入れ、

一緒に生きようと

囁いてあげてください。

すると、

自分が受け入れられなかった記憶の

元となる哀しい感覚の

すぐ横にある大切な想いも

また見えるようになります。

こうなると、今度は

それまで辛く苦しいだけだった

過去の記憶自体が変容していくのです。

 

過去の出来事は変わらない

過去は変えられない

そう言いますが、

曖昧さとともに

感覚的に存在している記憶は

それ自体が変化の可能性を

秘めています。

 

こう考えてくると

私たちは常に、

過去から自由になる可能性を

内在しているんですね。

それはすなわち、

自分は変化できるということの

証でもあるんです。

 

だから、どうか生きることを

あきらめないで。

 

ー今回の表紙画像ー

『肉ナス味噌炒め』

学生時代よく食べた。なすを素揚げしてから、豚肉、ピーマンと炒める。醤油、味醂、酒、砂糖と、合わせ味噌で味をつける。味噌のコクを出すためのコツがあったんだけど、思い出せない。。。