わかりやすいことをやる、わかりやすいところから入っていくというのは、物事を修得する際の一つのコツみたいなものだと思う。心のことで言えば、共感しやすいとか受け入れやすいということだ。何事も最初からうまくこなすことができればいいけれど、私のように食いつきというかキャッチアップのへたくそな者にとってはなかなかそうもいかないもので、そういう人間のために「継続が大事」とか「繰り返しやってみる」とか、果ては「石の上にも三年」だとか昔の人は言っていた。誠もってその通りだと思う。
これまで続けてきた駄文でも形を変え品を変え、私なりにそんなところを意識して発信させていただいたつもりだ。それは、ずっと昔の感情も世界も壊れかけ、混乱していた自分が生きることをあきらめてしまわないように想いを届ける上でも、まず伝えておきたいことだからだ。例え不格好だろうが、歩みが遅かろうが、そんなことは問題じゃない。時には後戻りしたり、あがいてるのにその場にとどまっていたりすることもあるけれど、うまく休みを取りながら忘れることなく続けることができればよいのだ。
何かを試してみる前に、またはやってみて結果が出なかったりした場合に、何のためにしているか、その理由を尋ねる人がいる。自分などまさにその範疇に入るのだけれど、何でもかんでも言葉で伝わるものでもないから、説明を求められてもなあということもある。恋は素敵だと思うけれど、これを理詰めで納得させられる人はいないんじゃないかな。心の領域は、言葉が脳と心をつなぐ有効なツールで、感情とか皮膚感覚で納得するための媒介物であるわけだから、あるところからは行動による体感が必要になる。
あるところ、とは、自分の中にそれまで抱えていた無力感や無気力、劣等感や自己卑下、それらを見ないで済ますための怒りや抗議活動などの横に、芽生えだした自分を貴ぶ想い、かけがえのなさの感覚が共存するようになった頃だ。もちろんそんなものを意識して感じ取るのは難しく、だいたいは結果として気づく。だが、その頃になると以前とは異なる行動(パターン)を選択することが出てきているものだ。つまり、必要になると書いたが、そういう方向に動き出すことを選びだすのだ。人間は必要のないことは行わないとはまさにこのことだ。
DoingよりBeing。心理の世界ではよくそういわれる。何をするか、ではなく、自分がどうであるか、あるいはどう受け止めているか。多くの人がより良くなろうとして何かをすることに躍起になっている実情に対して、まず何をするかの前に自分をかけがえのない存在だと思え!感じろ!と言っている。
DoとBeは元来相補的な関係だ。そして、そのスタートにBe、つまり自身の存在があることは確かだ。最初に己があって、後は相互的な作用の中で、個々人が個性と呼ばれるその人特有の人とのつながり方を獲得していく。そのあり方は千差万別だし、是非はその人次第のところがあるが、これまで語ってきたことからも明らかなように自分を貶める見方をしている人はどこかでDoとBeに対するボタンの掛け違いを起こしていることはわかると思う。Beの受け止め方がおかしいからDoでBeを補おうとするけど、そのDo(とその結果)自体が次のBeを貶めている。
だから、私たちはまず、オギャーと生まれてから現在まで連綿とつながる自分をかけがえのない大切な存在であるときちんと受け止めることが何よりも肝要だ。よく、生まれた時はそうかもしれないけど今は違うなんて言う人がいる。今が違うんじゃなくて、自分で自分を毎回そう扱っているだけのことだ。本来のかけがえのない自分をその場その場でその都度何とかくだらない自分、嫌な自分、とんでもない自分にしてしまっているんだ。「なんてこと言うんだ、そんなはずはない」という人は振り返ってみればいい。自分の土台を卑下して、自分の行為を腐して、人目を気にする自分を貶して、挙句の果てにそれを他者に投影して被害者だと思い込んで腹を立ててる者までいる。
あなたの中の一人があなたをそうしているんだ。決してあなた全体の総意なんかじゃないことを知ってほしい。最初はよそよそしく感じるかもしれないが、自分は大切だ、と自分に対して何度も声をかけてほしい。言葉は、それが聞きなれていないと最初は実感を伴って体に染み入ってこない。ことに気づいてもいないことを与えられても白々しく聞こえてしまうこともある。でも、繰り返すうち、それは徐々に活きた感覚として内在化されるようになる。だから、騙されたと思って続けてほしい。
そしてもう一つ。どこかで引用した気もするけど、『ニューシネマパラダイス』のアルフレッドの言葉のとおり、「自分のすることを愛せ」だ。先に私が述べたDoとBeをこねくり回した話よりよほどすっきりする。「いや~映画って素晴らしいですね~」とは亡くなられた水野治夫さんの名文句だが、そういうことなんだろうな。
さて、長々とこんな話をしてきたのは、なぜ私たちはこんなことを考え、感じ、繰り返し言い聞かせる必要があるかを知ってほしいからだ。これを知っているかいないかで、実行のモチベーションが変わる人だっているくらいだ。
・自分はかけがえのない無二の大切な存在だと知ろう。
・自分のすること、感じたこと、考えたことを愛そう。
・常に自分の味方でいよう。
これらを日々繰り返すこと、意識することとはどういうことか。それはとりもなおさず、なぜ実行することを頑ななまでに拒むのか、ということを考えるとわかる。
最初の方(6回目だったかな)のブログで「あなたは幸せを知っている」と題して話をさせていただいたことがある。今、哀しみで、怒りで、自己嫌悪で、無力感で苦しんでいる人、不幸に浸っている人は、幸せを知っている人だ、と。その理由もそこに述べさせていただいている。
では、その知っているはずの幸せな状態から不幸と言いたくなる苦しい状態になるとき、何かが変わったのだろうか。
私たちは成長の段階で、家族をはじめとする日常で出会う人々との間で多くのことを学んでいる。その一部として、自分という存在をどう理解し、他者や世の中全般をどう受け止めるか、それによって世の中と自分とのつながりをどうとらえ、どうふるまっていくか、というものがある。一番最初に自分に対するしっかりとした認識(=自分はかけがえのない大切な存在)があったとしても、途中から自分という存在や世の中を信じるに足るものである、ということが感じられなくなるような出来事を経験することは多々ある。そのようなことが多く続くうち、自分の存在の確からしさやそれまで学習してきた世の中というものの受け止め方に修正の必要を感じた心のセンサーの構成が変化する人がいる。自分が自分として生きていくために、これ以上傷つくことから自分を守るために、それまで信頼していた受け止め方、解釈を変える必要を感じるからだ。何をどう受け取り、どう蓄積し、どう対処していくかは人それぞれと言えばそれまでだが、一定以上のストレスにさらされるような経験はしない方が良いことはままあるものだ。マズローの5段階欲求説の下4つ(生理的欲求・安全欲求・所属と愛の欲求・承認欲求)を満たすことを前提に営まれる人の生は、先進国では表面的には保証されうるようになっている。だが、人が集まって暮らす世界なのだから、実際には嘘も裏切りも衝突も起こるし、突発的ならともかく継続して大人の自分だけが被害者の立場であり続けるなどということもまた考えづらい。その中で先に述べた経験しなくてもよいような各所に空いた落とし穴にはまることは大なり小なりあるし、子供時代に繰り返しそういう経験をする人も少なからずいる。
通常、人は生まれ育ってきた感じ方、考え方の延長線上を生きている。受け止め方や感じ方のセンサーもまたそのようにチューニングされ、そこから得られた愛情や信頼が心の土壌に養分として与えられ、生きるエネルギーを醸成するという仕組みを構成している。厄介なことに、感じ取るセンサーによって心の土壌に与えられる養分はいかようにも異なり、それが世の中では当たり前とされる愛情や豊かさ、親切、信頼、奉仕といった、自分を含めた人のつながりを受け入れるために必要なものを育てるどころか枯らしてしまう、そもそも芽吹かなくさせてしまうような養分ばかりを与える羽目に陥っている人は多い。同じ言葉、同じ振る舞い、同じ表情を愛情と解釈する人もいれば、胡散臭さと感じる人もいるのはそのためだ。人を信用するためのセンサーが機能していない、構成されていないために、受け入れる素地がない土壌となってしまっているのだ。
ここまで来るとお分かりかと思う。
私たちが必要なことは、この心の土壌を作ることなのだ。今の自分にはない、しかしかけがえのない自分を生きるために必要な、自分を信頼し、その力によって世の中を信頼し、時々起こるエラーや哀しい出来事も修復可能だと信じ、それは自らの生き方によって変化させることが可能だという想いを宿すための土壌を、日々の自分との接し方の中で築き上げていくのだ。
そして、今ここで苦しんでいる人は、土壌を作る余地も素地もあるということだ。可能性があって、自分のすべきこと、それも一大テーマとして持っておられる方なのだ。
いつもの言葉だが、心の土壌もまた一朝一夕で出来上がるものではない。そもそも出来上がるとか完成するものではないし、個々人ごとに試行錯誤が必要なことでもある。土壌に与える養分を取り込むセンサーの感度を変え、性質を変え、その土壌から生み出すものを自分の味方とし、何よりそれらを繰り返し行っていくのだから、学びました、はい出来ましたとなるはずもない。
だが、そうやって手にした新しい土壌とそれを組み込んだ自分は、それまでとは比べ物にならないほどパワフルだし、それでいて自分に優しく、自分を大切に扱い、今度はそこから他者・世の中に与えることの喜びとそれがさらに自分のためになることを実行していく活力ともなる。
土壌つくりは自己の成長の土台となるものだ。それはゴールがあるものではない。しかし、心の土壌を作っているのだ、と知ることで、かけがえのない自分を生きるために日々行おうとしていることが何を意味しているのか、どのように作用するのか、を理解し、ともすれば挫けそうになったり、あきらめてしまいがちな自分をもう一度モチベートしてくれるのではないだろうか。
生きている限り、なぜと思うほど多くのストレスに襲われることはある。経験された方もいるように、理不尽な、理解不能な体験により、自分の世界を形作るフレームが嘘で固められているのでは、と猜疑心が湧き上がるようなこともある。しかし、それはある意味し方のないことでもあると思うし、そんな世の中もまた自分の世界の一部であると思えるようになれれば、生きることに張りが出てくる。
かけがえのない自分を受け入れる心の土壌を作ることが、自分を愛する一助とできればいい。
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