若かりし頃、とある英仏合作の恋愛映画にのめりこんだことがあった。アルバイトで稼いだお金で夜な夜なレンタルビデオショップ(当時はVHSとベータ)に通い、見たかった作品を借りまくっていた頃のことだ。すでに原家族にガタが来ていて、なにがどうなっているかわからず、ひたすら架空の物語と安いウイスキーの世界に逃げ込んでいた。
映画は1970年の作品で、裕福ではあるけれど仕事依存の父親と継母との間で家の中に居場所のない15歳の男の子と、画家の父親を亡くし身寄りのない14歳の女の子が出会って駆け落ちする話しだ。こう書いてしまうと何とも陳腐な感じがするけれど、物語にのめりこんでいる身にはそんなことは全く関係はなかった。ヒロインの方が数年前に亡くなった報をネットニュースの片隅に見つけたことをきっかけに作品を見直してみて、とても懐かしい気持ちになった。同時にあの時の倍以上の年齢になった自分を振り返り、杉田時の流れにしばし呆然とした。
この映画は、多感期のティーンによっては感銘をうける映画だろうが、齢を重ねてどんな映画が好きかと問われれば、いい年のおじさんが紹介するのは一般的にはためらう類の作品だ。もっとも私の場合、そんなことはないけれど。はっきり言って、今も、大好き、なのだ。
別に映画の話がしたいわけではない。前述の作品も題名を言ったところで、私よりずっと年配の方が「あ~あれね」と済ませてしまうような気もするし。
もう一つ。『コドモ警察』というテレビドラマがある。2012年か2013年のドラマだったと思うので、覚えてる方も結構いらっしゃるのではないだろうか。太陽にほえろなど私が子供の頃に放映されていて今もうっすらと記憶の片隅にあるような往年の刑事ドラマをパロりながら、悪の組織レッドヴィーナスの特殊ガスによって姿だけ子供にされてしまった刑事たちの活躍?を描く作品だ。太陽にほえろのボスそっくりの格好で実際にボス役として登場する主演の一人鈴木福君が、もともと愛人関係の鑑識課職員である吉瀬美智子と署の屋上で彼女の愚痴を聞いたり大人の会話を交わすお約束のシーンは毎回のお楽しみで笑えた。
何話目か、その子供刑事軍団が捜査か何かで川に繰り出すシーンがあって、そこでボス(=福君)は川沿いに何かを探しながら「なぜだ、無性に魚を捕まえたくなってしまう」というセリフをのたまいながら、幼児さながら?に水の浅瀬に小魚を捕まえようと追いかけるシーンがある。
別にテレビドラマの話がしたいわけではない。私は福君がそうのたまいながら魚を探し続けるシーンをディスプレイ越しに見ながら、彼のセリフに心から共感した。それが伝えたかったのだ。
たかがそんなもんのために、長々と引用するなって?
いい年のおじさんの私だが、今もってたまに川に出かけると、その辺の店で購入した安いタモで魚を取っては家の水槽に入れて眺めている。魚を捕るのも、水槽で飼って眺めるのも楽しい。これらは、かけがえのない自分を作ってくれている大事な要素だ。
先に挙げたおセンチな子供の恋愛映画は今も私が大好きな作品で、小学生さながらの川遊びは、今も私が大好きなことだ。けれど、私と同じ趣味・性癖を持つ人の中には、そのことを他者に言うことを憚る人がいる。先日川で出会った同年代と思しきおじさんは、「いやあ、子供を自然に触れさせるためとか言って連れ出してますけどね、ほんとは僕が一番来たいんですよね」と言って、Tシャツに短パン+上〇屋のたも網を抱えていでたちだけはその辺の子供と変わらない筆者を見て仲間とでも思ったのか、苦笑まじりにそう告げてきた。何でも、こんなことは恥ずかしくて会社の人にはとても言えないのだときいて、私は目を丸くしたのだが、人の相談にのっていると案外そんな人は多い。単に恥ずかしい、ではなく、もう一歩踏み込んだところに理由が隠されていたりすることもある。
非常に遠回りしてしまったが、要するに本日はそんな話がしたかったんです。
恥ずかしい、格好悪いという感覚は誰もが持っているもので、そう感じたからおかしいというわけではない。人それぞれ傾向があるから、私のような者にとってはどうということもない性癖や過去や現在をカムアウト(というほど御大層なことではないと思うが)できない人もいる。
では、自分の過去を振り返ってそういったぎりぎりのこと?をどれだけその時の楽しさ、のめりこんだ臨場感、唯一の時間といった大切な気持ちよさとともに思い出せるだろう。
恥い、格好悪い、みじめったらしい、せせこましい、みっともない、ジジババくさい、果ては気持ち悪い、胡散臭い。いやいや、あれは勘違いしてただけなんだ・・・。
そうやってなかったことにしていることの中に、隠れた自分の軸・土台が眠っていたりしないかい?
思い出すと、頭を抱えてしまうような思い出があったりしないだろうか。
年甲斐もなく×××だったこと。
やたらと△△△していたこと
実は今も※※※だったりすること
あー格好悪かったな、と苦笑交じりに思い出してさらりと済ませられるならそれでいいと思う。ここで言いたいことは、見なかったり、遠ざけたり、気持ちの悪い存在を忌み嫌うかの如く過去の自分を足蹴にしていないか、ということだ。
それらを自分の内面で遠ざけて、なかったり見なかったりしているうちに、自分自身の想いを見失ってしまう。それはそのまま自分のかけがえのなさを否定してしまうことだ。成長の過程で自分が出会った無数のシーンを、その後に経験した哀しい、残酷な出来事とのあまりのギャップのために、自分の大切な一部として思い出す余裕が消え、心の隅に追いやって、プレス機で圧縮して自分とは関係のない極小のものにしてしまう。以前、原風景のところで触れたさりげないシーンの中には、実は目も当てられないそんな場面もまた数多く含まれるものだ。それらは、本当に恥ずかしくて目が当てられないこともあるだろうし、単に今はそう感じているだけで実はもっと素朴で素敵なことだったりするものもあるはずだ。それらは皆、かつてのあなたがその時に全身で愛したかけがえのないシーンであり、その時の風景や周りにいた人々もまたかけがえのない存在であっただろう。全て、あなたの中の一部なのだ。
これからを歩いていく上で、それらを否定するほどの余力があるなら、その力をもっと自分を思いやる方に使ってほしい。繰り返すが、どれもこれもその時あなたが愛したものだ。恥ずかしかろうが、格好悪かろうが、みっともなかろうが、大切な自分の一部なのだ。それを蔑み、世の中の価値などといったほんとは誰のものでもない基準などのために売り渡してしまってはいけない。
人生100年時代とは言うけれど、否定・否認を続ける間に時は過ぎ去ってしまう。
人生なんてすぐ終わってしまうよ。
わからないかな。
今のその年まで、あっという間だったでしょ?
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