自分が大切な人を傷つけている。
自分が大切な人を苦しめている。
でも、解決の目途がたたない。
そういった類の罪悪感が存在する。
苛立ちと怯えが同居した不快な感覚で、原因がわかるまでは混乱が収まらないし、原因がわかると今度は練に立たされる。
お察しの通り、これは若かりし日の私が親に対して陥った感覚だ。些細なものであれば、抱えた経験がある人もいると思う。
罪悪感には、「わっ、やっちゃった」という日常の些細な出来事に基づく軽いものもあるが、ここで取り上げるのは肉親や親密な関係の間に生じる、いささか不愉快度の高いものだ。一見罪悪感の形をとっているが、そこに他の感情が同居していて、不可解なものにしている。
罪悪感は必要ないという医者もいるようだが、必要ないから感じなくて済むならこれほど楽なことはない。ことはそう簡単ではないから私のような当事者はその時期とても悩み苦しんだし、同じように苦しむ人には共感もする。私たちが選択する感情は、そうと気づくまでは無意識に依拠しているから一筋縄ではいかない。
罪悪感のメカニズム自体はそれほど複雑ではないと思う。簡単に言えば、常識や当たり前の実現も含めて、人や世の中の期待を達成できない自分を責める感覚だ。常識も当たり前も眉唾が含まれるのはご存知の通りだが、できるところから少しずつ歩み寄ってそれぞれが人の関係を破綻に導かないようにする術を成長する中で身に着けている。
一方で、この感覚を素直に認められず言い訳をすることもある。私などはとても弱い人間だから、何かミスをするたびいちいち言い訳を考えては、そんなふうに考えてもいいことないから、と修正するばかりだ。言い換えれば、多くの人が罪悪感を言い訳で取り繕うことをよしとせず、自分を律しようとしているということだろう。
罪悪感は自分を責める感覚と書いたが、この元となる自分の見方とは正しいのだろうか。この一点が覆ると、話が全く違うものになる。
私たちは成人するまでの間に、親をはじめ周囲の人々に何かにつけて世話になることを繰り返している。そこにはいくつもの思い出ができ、学びの元があり、自分の根っこができる。だから、大人になってから彼らと距離と取ろうとしてそのことを責められると、自分がとても残酷なことをしている感覚に陥る。年を取って弱った私たちを助けてほしい、お金がないのだから面倒を見てほしい、と言われると、何とかできないかと思う。
当たり前だが、何とかできる人は何とかすべきだ。何とかできるとは、時間や金銭の工面はもちろん、その前提として心と体が動く、という意味だ。そして、助けようとして共倒れにならないことだ。その上で、助けたいと素直に思えるなら、是非実行すべきだ。
・・・私はそうならなかった。
この一点だけで、自分のことを心のどこかで人間以下の存在、鬼畜だ、と見なすほど、罪悪感に苛まれ続けた。
◆援助を乞う彼らを見放し、不幸に追いやる残酷者
◆育ててもらった恩義を仇で返す卑怯者
自分のことを言葉にすればそう表現されるような感覚が体の中に渦巻き、それでも頑なに両親を遠ざけようとする自分に困惑した。
今なら、その理由はわかるし、自分に従ったことが間違いではなかったと思っている。もう少し踏み込んで言えば、あの当時の世の中の見方、人のあり方への洞察のまま、彼らのためにしてやれること、少なくとも彼らと一緒にいてできることはなかったと思う。
老後に住む家を無心する父と、常に息子に一緒にいることを切望する母が私に求めていたのは、別のものだった。
別の物、それは・・・。
- あなたの力で、いつの間にかおかしくなってしまった私の人生を代わりに背負ってほしい
- あなたの力で幸せだった(と感じていた)頃の私の環境を再現してほしい
- もう一度、家族が家族であった頃のように皆の関係を再現してほしい。
それらは全て、私と妹が子供時代から必死になって行ってきたことだった。
父の荒いため息と怒鳴り声、罵詈雑言、母の泣きじゃくる声、こちらの拒否も構わず夫婦間の性の不和を垂れ流すこと、互いが徹底的に相手を追い詰めるまで続く罵りあい、そういった行為のどれもが相手の変化を期待し、自分が何かをすることをあきらめてしまっていた。
彼らのためにしようとすることが、彼らをますます蝕んでしまうこと、そしてその中に自分たちも取り込まれてしまう、そんな行動をイネイブリング - 世話焼き行動と呼ぶ。アルコール依存症者の面倒を見る者(多くの場合、酒飲みの夫に対する妻)をイネイブラーという。相手の世話を焼くことで自分の存在価値を見出す。
この世話焼き行動は、相手が酒を飲まないようにしようという気遣いによって、相手の禁酒ではなくアルコール依存を助長し続けることがわかっている。
これは大人同士の話だが、子供が親に行うケースももちろんある。勉強を、運動を頑張る、面白い子・夫婦間のつなぎ役になる、演劇や音楽に秀でる、など、子供の将来につながることもあり、一概に批判できるものではない。だが、これがあること、つまりそういう子供がいて親の仲を取り持っている場合、そこに本来自分自身で自分の価値 - いつも言うかけがえのない自分 - を認識する能力を養うべき大人の側がいつまでも己の存在を自身で受容できない状態が続く。それに気づいていればまだ救いもあるが、往々にして(本当は自分を責めているのだがそれにkづかず)原因を外部に求めようとする。同じような相手である伴侶が目の前にいれば、あとは、まるで癌のように互いの関係を蝕み続ける行為が続き、子供という投薬による自尊心の治療を欲するようになる。残念なことに、糖尿病におけるインスリンのごとく継続して投与が必要だが、子供がそれをやってしまうことで先に述べたとおり今度は子供もまた親の蝕む関係に取り込まれていくことになる。唐突な例で恐縮だが、引きこもりの子供たちが、実は親を見守ってくれているという事実は意外に気づかれていない。
書き出すときりがないが、この状態からは信じられないほど私は父と母が好きになった。母とは、季節の節目に会いに行き、父の墓を参り、互いによしなしごとを話して時間を過ごした。最後の数年をそうやって過ごした後、母は他界した。逝ってしまった彼らを好きであることなどなんぼのもんじゃ、という方もいるのかもしれないが、自分のルーツとの関係は落ち着いていることがとても大切だ。あの二人が、持てる精一杯の力、幼いころから学んできた精一杯の洞察とともに私と妹を育て、彼らなりの幸せを追って生きていたことも、今は胸を締め付ける切なさとともに理解できる。この変化のプロセスはまた新たに一章を設けて書き連ねたい。
ただ、この場で一つだけ申し上げたいことは、自分の世界を持つことの大切さだ。ともすれば、自分の世界を持ってしまったこと、それが親の世界と相いれなくなってしまったことが親を追い込み、おかしくしてしまったと悔いる向きが何故だかいる。何故だか、と書いたが、私自身がそこで葛藤した過去があるのだから偉そうなことは言えない。
考え方が反対なのだ。
自分の世界を持ったからおかしくなることなど、何一つない。そんなものとは関係なく、おかしくなる人はおかしくなってしまう。自分の世界を持たないままであることが、自分の気持ちに従えずにずるずると問題の中に取り込まれていく原因なのだ。自分を救えない者が大切なもう一人を救うことなどできるはずがないことは以前にも書いた。
自分の世界、それはあなた自身の信じる生き方、世界の見方、価値観のことだ。それはかけがえのない自分と生きることとコインの裏表の関係になる。
あなたを信じよう。
あなたを大切にする生き方を考えよう。
それこそが大切なあの人を救い、世の中にささやかな変化を起こす。
大切な人の幸せを望むことは、自分が自分の世界の中で幸せを実現していくことだ。
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