ナルシズム。
ナルシシズムとも書きます。
ここではナルシズムと表現します。
精神分析で使用される用語ですが、
ご存じのように一般的にも使用されます。
どちらかと言えば、
あまり良くない意味で使われる言葉です。
語源というか由来は、
ギリシア神話のナルキッソス。
自己陶酔的で、
自尊心の塊で、
自分の容貌に溺れていて、
何というか
自分はこの世の誰よりも美しい、
と思い込んでいる、
彼のそんな思い込みをして、
名付けられた言葉、ナルシズム。
その美しさ(と若さ)故に
彼を取り巻く女も男も彼を愛し、
妖精までもが彼に恋をしたといいます。
そこまで惹かれるなんて
いったいどんなんだろ、と思って、
ネットに散乱する彼の絵を見まして、
「それほどでもないんじゃないかな」
と、
私のような輩は思わず
突っ込みを入れたくなりましたが、
そんな感想は置いといて、
自分の容貌を気にする、惚れこもう当する、
という意味では、
実は大なり小なり、
誰もがそんな世界にいたことがある
のではないでしょうか。
私もそんなときがありましたが、
人は見てくれにとても凝る時期が
ありますよね。
高校生くらいの頃は
時間をかけて整えれば整えるほどに
際限なくよくなるとでも感じているのか、
誰もが鏡に映る容姿を気にかけます。
こう書くと、揶揄しているように
読めるかもしれませんが、
決して批判でもなんでもなく、
当たり前、そうして当然のことだと
思います。
子供だった少年少女が、一人の雄と雌へと
脱皮する過程は
単に表面上の見てくれがどうの、
という枠を超えて、
自分の性を肯定する儀式的な要素をも
含むからです。
もっとも、ごく一部の人は、
膨大な時間と手間をかけすぎる
きらいがあるようですが。
今、自分に備わっているもので十分と
身にしみて感じられれば、
一定以上の時間をかける必要は
なくなるんですけどね。
見てくれが気になって仕方ない方、
覚えておいてね。
容姿へのこだわりは
私の親の世代は、
主に女性のためのものでしたが、
少なくともこの半世紀の間に、
男女の差はなくなりました。
自分の容姿に気を取られ続けられる時代は、
平和なんでしょう。
平和なんだから、
そんなこと気にすることなく、
己の根源的な欲求を追求すれば、
もっともっと気持ちいい世界を
得られるかもしれないのにと思うのですが、
純粋に好きでそうしていて幸せな人も
間違いなくいると思うので、
そういう人はこれからも楽しめるといいと
思います。
さて、
心理の世界では
ナルキッソスを取り上げるとき、
彼のナルシズムのもととなる在り方に、
自尊心の欠如を見ます。
湖のほとりにかがみこみ、
水を飲もむために
水面に顔を近づけた彼は
水面越しに表れた人の顔に恋をします。
彼が顔を引っ込めると、
水面に表れた人も見えなくなる。
もう一度彼がのぞき込むと、
その美しい人もまた現れる。
要するに、
水面に映る自分の顔を見て
ナルキッソスは恋に落ちてしまうわけです。
このような言い方は
いささか失礼かもしれませんが、
一歩引いでみれば、
漫画やコントにでもなりそうな
そんなワンシーンにも思えます。
ですが、
自分に酔い、
美に酔い、
そこに最大の価値を見出す人にとっては、
切実な問題で、
ナルキッソスもまた、
その最たる一人でした。
もはやその人、
すなわち水面に映った美しい人なしでは
いられなくなる(生きていけなくなる)という
恋焦がれた状態になってしまい、
食べ物も受け付けなくなった彼は、
最後はやせて死んでしまいます。
先ほどの
「それほどでもないんじゃないかな」
という
突込みの言葉は忘れていただいて、
彼の絵を見ると、
確かに少女漫画に出てくる、
いえ、最近では
少年漫画にも出てくるような
そんな美男子の容貌をしています。
西洋人の容姿が大好きな一部の方には、
たまらない美しさに見えるでしょう。
そんな彼の価値の大部分を占めているのが
外的な美であることを
彼自身が認識しないまま追い求め続け、
それ故に起こった悲劇だとすれば、
ナルシズムという言葉は、
通り一遍の意味よりも深い示唆を
私たちに与えてくれているようです。
私がここで述べたいことは、
ナルシズムはよくないことだ、
ということでは
全くなくて
私たちには、
健全な意味でのナルシズムが
全く足りていない、
ということです。
長々とギリシア神話の一節を取り上げて
話をしてきましたが、
自分に鋭いを批判くだしながら、
他者が認めてくれることを一生懸命に
達成しようとすることは
いつの時代も、どこでも行われています。
ここで取り上げた容姿の話などは、
単にわかりやすい一例にすぎません。
私たちは、
ある年齢くらいまではそれなりに
見た目を気にしつつも、
ある頃からはそれなりの自分を受け入れて
容姿的には達観し出すのではないか
と思います。
着飾ったり、髪形やお化粧を施しても
大もとはと言えば、
どんぐりの背比べだ、
と考えるのかもしれないし、
そこまで飾ることを必要としないほど、
伴侶がいたり、
心が安定したり
するのかもしれません。
ナルキッソスは
自分の容貌に酔わざるを得ないほど
自尊心が低い。
それがナルシズムが本当の意味で、
良くない扱われ方をしている理由です。
しかし、容貌に関するナルシズムは、
人が抱えるほんの一部です。
そして、いわば、
不健全な一部です。
ナルシズムは大切。
究極のナルシズムは、
そのままの自分でよい、
そのままの自分を受け入れること、
そういうことです。
自分に惚れるなら、
別に見てくれに惚れてもいいけれど、
上っ面で済ませるな、
もっと根源的な存在そのものについて
徹底して惚れろ、
そういうことだろうと思うのです。
先に私が
「全く足りていない」
と言ったのは、そういう意味です。
それは同じナルシズムでも、
健全な側のものです。
ここまでくると、
いつも言うように、
あらゆる自分を受け入れることの大切さに
たどり着きます。
ナルシズムが
外的な価値観だけにならないよう、
自分が自分をひたすら
満足する、
満たす、
受け入れる。
その究極のナルシズムを実現することが、
おそらく
私たちに求められていることだと思うのです。
そういう意味では、
実は私たちは、
まだまだナルシズムが足りていない、
そうも言えると思いませんか。
ー今回の表紙画像ー
『遊水地公園の花壇』
一昨日の夕景の続き。
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