ナルシシズムが足りない

日々の棚卸

 

ギリシャ神話に出てくる

ナルシスが語源のナルシシズム。

水を飲もうと膝まづき、

森の湧き水に口をつけようとして、

水面に映った自らの美しい容貌に恋をした、

と言われています。

恋い焦がれた彼は、

その相手(水面に映った自分)に

決して触れることができないことに

気が狂わんばかりに哀しみ、

最後は衰弱して死んでしまったそうです。

『こち亀』が続いていたら、

これを題材にどう取り上げるんだろうなんて

いらない想像をする悪い癖が私にはあるのですが、

そうは言っても、

単純に笑ってばかりもいられません。

 

ナルシシスト(またはナルシスト)

という言葉は一般的に、

うぬぼれとか自己陶酔として使われます。

自信満々すぎている状態とか、

そんな感じでしょうか。

あまり良い意味には使われていないことは

ご存じのとおりです。

 

一方、心理学者の分析では、

ナルシスは極度に自尊心が低い

ということになっています。

健全な自尊心を持っていれば、

自らの容貌の美しさへの渇望や、

意中の相手と接することができなくて

落ち込むことに対して、

自分そのものを受け入れているのだから、

焦燥感やパニックになったり、

まして衰弱死などということはない、

という理由からです。

 

ナルシスの分析はともかく、

ナルシシズムという状態には

陥らないにこしたことがないのは

確かだと思います。

何かに酔うこと自体は

さほど大きな問題ではないのでしょうが、

ナルシシスティックな状態は

往々にしてもっと重要な問題を

隠すためのアディクションとして

顕現することがあるからです。

問題の本質を見えなくしてしまうわけです。

見えなくしてしまう問題の本質とは、

他のアディクションと同じで、

自尊心の欠如が招く自己批判による

凄まじい痛みであり、その原因です。

その原因とじっくり向き合い、

自分を受け入れることで自尊心を取り戻す

という一連のプロセスに

入っていけないのです。

病的なナルシシズムは実は

とても怖い状態です。

 

ただ、人によっては

ナルシシズムに含める、

ある種の“うぬぼれ”や“思い込み”は

私たちが生きていく上で、

とても大切なものです。

ある種の、とは

自分が生きること、

自分の命を保つこと、

自分の存在を許容すること、

などの、

生に対する“根源的な”肯定感のことです。

ナルシシズムの弊害が素の自分を脇に置いて、

人の評価に浸ることであるとするなら、

この“うぬぼれ”や“思い込み”は、

素の自分を信じて生きていく力を

担保するものです。

 

怖いかもしれない

できるとは限らない

批判されるかもしれない

それでも、自分は自分でしかありはしない、

時にくじけそうになる自分も受け止め、

自分を信じて生きていく、

そんな姿勢、生き方の底流に必要だ、

ということです。

 

言い換えれば、

私たちが自分自身で、

自分そのものを否定して、

自信を砕いて、

うぬぼれを放棄させて、

自分の人生をいったいどうやって

生きていけばいいのでしょう。

繰り返しますが、

他者の評価に一喜一憂し、

世の中の価値観に惑わされる

表層的なナルシシズムは、

よほど余裕があるのでなければ、

確かに距離を置いた方がいい。

ですが、

怖いけれどやってみよう

自分ならできる

批評批判は自分の意見ではないし、

存在価値そのものでもない

そう受け止め、

自分を根源的に否定することなく

生きるためには、

そういった種類の

“うぬぼれ”や“思い込み”があって

しかるべきだと思うのです。

 

そんな自分であることは、

そんな自分を持つことは、

批判されるべきではないし、

批判を気にする必要のないことです。

そして、

自分で持つこと、

持った自分を肯定することは

自分自身で決められることです。

 

おぎゃあ、と生まれた私たちが

親からミルクを与えられて、

この世に生き永らえる基礎をもらったように、

それらは、

自分が自分に与えていいことであり、

継続して与えていくべきことでもあります。

 

そんな健全な“ナルシシズム”が

自分の中にないと感じているのなら、

取り戻す必要がある。

それが、

遠ざけている自分を受け入れていき、

All自分で生きるようにする、

ということです。

 

ー今回の表紙画像ー

『川の土手から見た夕景』

夕陽に間に合わなかった。日が沈むのが早くなったなあ。