やっているようで疎かにされがちなこと

日々の棚卸

 

以前、睡眠とその大切さについて

書いたことがあります。

こんな感じですね↓。

https://nakatanihidetaka.com/cherish_sleep/

 

体、意識というものについて、

私たちはつい理屈で考えがちですが、

本来はアナログなものというか

実際にはいまだ9割方が解明されていない

と言われています。

つまり、人体に対して理屈を当てはめて

理解したようになることは

一定程度以上には

あまり意味がないと思うのです。

できることは、例えば、

体が悲鳴を上げているときは、無視せず従う。

痛い、だから痛いことはもうやめよう

眠い、だからぐっすり眠ろう

お腹がすいた、だから食べよう

お腹いっぱい、だから食べるのをやめよう

疲労が激しい、だからゆっくり休もう、

そういったことです。

えっ?

それじゃダメになってしまう?

じゃ、ダメになったところでまた考えましょう。

そのくらい、

自分を追い込んでいるんじゃないですか。

結果が出ているならそれでいいけれど、

追い込んで苦しんでいるだけになっていませんか。

いつの間にか、手段の目的化が起こって

結果は関係なくなってしまっている。

マゾヒストじゃないんですよね?

 

睡眠は、

その日、

またはそれまでの日々に経験したこと、

感じ取ったことを、

妄想も含めて(笑)、

無意識の世界の中で整理すしてくれる

と言います。

それが新しい経験則として

直感や皮膚感覚となって心身に宿る、

そんな働きを持っているわけです。

私たちは、

健康のため、

生活習慣病予防のため、

均整の取れた体を目指すため、

美しいボディを実現するために、

栄養のバランスを考えた食事をし、

サプリを飲み、

糖質制限をし(私のことです…)、

脂質制限をし(私のことです…)、

運動します(この間コレステロール値が…)。

ですが、それによって体が健康になる、

丈夫になるというのは

ある一元的な見方にすぎません。

もちろん健康になることは

私自身も実践済みですが、

睡眠が十分でないと、

健康だけどもろい、

そんな体になってしまう。

 

人の究極の欲求、ご存じですか。

呼吸欲です。

人は呼吸しないと己を保つことができません。

これが一番です。

否定する人はいないでしょう。

現代社会か倫理か忘れましたが、

授業で初めて教わった時には、

そんな当たり前のこと説明するな、と

突っ込みを入れた記憶があります。

ですが、

欲求は生命維持に必要なものですから

呼吸欲とはまさにその通りですよね。

 

そしてその次、これが睡眠です。

食欲や性欲と同じか、

あるいはそれよりさらに

強烈な欲求、根源的な欲求として

位置付けられています。

根源的な欲求は、

生きるため、生存のために

欠かすことができないものです。

にもかかわらず、残念ながら、

私たちは睡眠というものを

他の欲求ほど真剣に扱っていない、

普段何とか起きていられるから、

まあいいだろう、

その程度に捉えて大切にせず、

疎かに扱ってしまっています。

ですが、前述のとおり、

根源的な欲求を適切に満たすことは

自分が生きる上での目的を達するために

優先順位を上げて、

真剣に考えるべきことなのです。

 

心も同じです。

痛くて、苦しくて、つかみどころのない

そんな不安に包まれて、

どうしたらよいかわからない。

そんなとき、

束の間の楽しいことを求めたり、

気晴らししたり、

快楽にふけったり、

今ここに集中しようとしたり、

そうすることは一時避難の意味では

大切であることは間違いありません。

しかし、

その痛み、苦しみ、不安が

どこからくるのか、その根源を知り、

フォーカスして、

そこでもがいている自分に寄り添い、

そこで苦しんでいる自分を受け入れ続け、

ちょうど睡眠が無意識の中で

日常の経験を整理するように、

自分の無意識の世界観を変化させていく

そんな作業が必要なのです。

 

ただ、心も体と同じだと書きましたが、

違うこともあります。

体にとっての悲鳴に相当する

心の苦しみの場合、

本音を欺く感情が覆いかぶさって、

本来はどうしたいのか、

本当はどうするのがよいのか、

を隠してしまうことがあります。

荒れて、悲しんで、落ち込んで、怒り狂って、

一番手掛かりとしやすいところに

意識を向かわせてしまうのです。

それがすぐ解決することならいいのですが、

その問題を取り去っても

形を変えて出てくるようなことが

何度も繰り返されるのであれば、

それは生き方のメカニズムとして

組み込まれてしまっていることになる。

そう考えて理由を探っていくと、

家庭環境・親に行き着くことが多い。

それは確かに原因としては間違いではなく、

そのままでは、

そこにフォーカスして悪者扱いが始まります。

 

そこからです。

大人の私たち、

とっくに成人した私たち、

社会人となった私たちが求めるのは、

正しいことをあげつらうことではない

ことを理解しているはずです。

そもそも、

完全な家庭環境や養育の存在など

あるはずもないことは頭では

誰もが理解しているはず。

もちろん、その一方で

自分の痛みをそっちにのけて

その理解だけを自分の中に

力づくで内在化しようとしたところで

大きな歪みが

正常な精神活動を妨げるだけです。

 

まずすべきこと、考えるべきことは、

悪者扱いをして腹を立てることを

やめることです。

やめるのが難しければ、

それを脇に置いて、やるべきことがあると

知ることです。

良好とはいえない環境で生きてきて、

今何とかまだ生きているなら、

その不満、不安、怒り、恐怖に

対処し、打ち勝っていく方法は、

それぞれの都合に合わせて

私たちが自身で開発していくものです。

それが自分の人生を背負うことで、

その故に、そこを乗り越えた時、

自信もつくし、自分に対する愛着も

誰にも負けないほど強くなる。

自分に対する愛着が肯定的になると、

必然、人とのつながりが気持ちの良いものに

変わっていきます。

 

できることは、

正しいことをあげつらう代わりに、

楽になること、

良くなること、

幸せを感じること、

そういったことを求めるようにすることです。

すると、それまで、

不満、不安、怒り、恐怖などに当てていた

視点、方向が変わってきます。

怒っていると、苦しいでしょ?

恨んでいると、嫌な感じでしょ?

哀しんでいると、痛いでしょ?

抑うつの日々は、つらいでしょ?

最初は信じられないかもしれないけれど、

その感情、その気持ち、

自分で受け入れてない自分がいるが故に

自分で選択してしまっています。

 

自分のために、

大切で腹が立つ親のために、

そしてかつて与えられた家庭環境と

これから訪れる未来を

素敵なものにするために、

そんな考え方、受け止め方を

“実践”してみませんか。

 

ー今回の表紙画像ー

『街はずれの夕空 ~ 散歩より』