1.要約
人を人として育むために必要な愛着。
愛着に関する障害がもととなり、現代社会の中で、ADHDや鬱、摂食障害など、現代病を生み出している。これらの症状は、医学界や世の中で定説とされている遺伝的要因によるものであるとは限らず、養育のような家庭環境によって生み出されるものでもある。
愛着崩壊が生み出す人格には、不安型や無秩序型といった不安定な愛着を抱えるものがあるが、回避型愛着もそんな人格の一つである。
ネオサピエンスとは、この回避型愛着スタイルを持つ人々をさしている。
回避型とは、他者との情緒的な関わりに喜びも関心も持たず、誰とも希薄な絆しか持たないタイプの人のことである。表面上は、職場で大勢と親しげに接していても、家族内で親や伴侶と話をしていても、内面は常に人との距離をとっていたりするのだ。これに対して、一般の人々を共感型と位置づけ、愛着は生きる上で必要であり、人とのつながりの中に生きる意味と力を見出す人々としている。
二十世紀半ば、イギリスの精神科医ジョンボウルビィが提唱する『母親の愛情や世話が子供の成長に不可欠』という説は、まだ医学界に受け入れられていなかった。当時は、父親との関係を重視していて、母親とのそれは幻想に過ぎない、とされていた。
これを覆したのは、彼とアシスタントのメアリーエインズワースによる、ウガンダとイギリスでの研究結果による。母親との愛着の状態が子供の人格を決める重要な要因となっており、親がいて、ちゃんと育てられているはずの子供であっても、愛着が不安定であれば、その中に母親がいてもいなくても子供が関心を示さない回避型があらわれることが確認されたのである。
回避型の愛着スタイルとは、傷つくことを恐れ、愛着を求めなくなることである。当然、他者との関係は前述のとおり、希薄になる。不安型や無秩序型では、自分もそれ以外の人々も傷ついたり嘆いたりする関係性となるが、回避型ではそれがない。
北欧のように、女性への行政サポートが手厚く、母親が家にいないケースが多い地域では、子供への支援は充実しているが、現実を見ると、子供自体も愛情を期待しない回避型になることで、人の関係のバランスをとっているように見える。
回避型に至る進化(?)は古来からの生活様式の変化にも関連している。
人類の進化は一万年ほど前に停止したという定説に対して、コクランとハーペンディングの主張『一万年の進化爆発』を取り上げ、実際には農業化によって爆発的な進化が進んでいると主張している。
類似の主張足りえる、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモデウス』の内容に対しては疑義を呈しつつも、一部を引用して、回避型の誕生に至るプロセスを述べている(ハラリ自身は回避型というものに関する言及は一切していない)。
農業革命によって人口爆発が起こり、大人数を束ねるための宗教革命が続いた。ここから生まれた科学革命が、今度は神のごとき万能の力を人間にもたらし、自由意思で選択し行動し続けることに意味を見出すようなった。
しかし、この自由意思に置き換わるものとして、AIが登場した。人間至上主義の危機である。著者は、それは人間自体が無用の長物となることを意味しかねないとしている。そんな主張だ。
一方で、産業革命の影響にも言及している。
都市住民が誕生すると、地縁血縁による信頼の維持よりも、法律や制度など、愛着システムに置き換わるものによる結びつきが支配的になった。共働きと核家族化、法や制度という抽象的な媒介物による結びつきが主流となった時、家族は安らぎの場としても、子育ての場としても、中途半端な機能しか持たなくなっていった。
当然、子供は、求める愛着を制限されるシーンが増える。愛着とは、根源的な生への欲求であるとすると、これは致命的である。制限が人という動物としてあってはならない類の寂しさや痛みを幼いころから受け続ければ、必然的に痛みを回避するための内面の変化を余儀なくされる。
回避型は、恋愛やセックスへの意欲やスキルに乏しく、人とのつながりより仕事を好み、晩婚化、非婚化の傾向を持つ。子孫を残すことにも消極的で、大昔から一定数いたはずの彼らは、概して少数派であり続けた。これは、回避型が増えることがなかった理由だ。
IT革命と医療革命により、その様相が一変することになる。
性的な欲求が乏しくとも、先進医療によって子供を期待できるようになる。
回避型は、愛着を必要としない(意識から遠ざけている)方向へ変化する。
世の中では、共感や愛着の代わりに、共感型にはなしえない仕事の効率的な達成や支配的地位の獲得などの能力に適応した社会が出来上がりつつある。
回避型は、悪口や噂話を嫌う。人付き合いの苦手な自分が、かつてそうされて苦しんでいたからだ。集団でつるむことも苦手だ。情緒的活動や共感も苦手だ。
反対に、巨大化したネットワークとそこにからむ膨大な人数の人々との関係性を、共感型にはありえないデータ的な扱いで対応することに長けている。
そんな中で、回避型人類がさらに愛着を失っていくということは、機械のようになっていくということを意味する。特別な個の関係がなくなるからだ。それは親子間でも全く変わりはしない。かつて自分を育ててくれた人、という存在にとどまるのだ。しかも、その子育てさえ、やがて回避型は苦痛となる。子供を育てるということは、自分以外とのつながりを最優先にすることに他ならないからだ。ここから先、著者は、子供を作ることも育てることもAIによる管理システムで行われるところまで述べている。
また、自己の在り方も変わってくる。共感型にとって自己とは感じる自分であるが、回避型にとっては借り物の自己や繰り手が必要なサイバーセルフである。これは次のラストシーンで大きな意味を持つ。
ラストの場面で、回避型の行く末の例がSF的に示されている。
AIが司法・行政・立法を兼ねる社会は、回避型が望んだ平等で公平な世の中だ。
そんな社会の中で、どうしても彼らを悩ませる問題が一つある。突発的な自殺衝動である。きっかけは些細なことだったりもする。いずれにせよ、彼らの幸福は概して長続きせず、常に破滅の瀬戸際にある。
衝動的自殺を避けるべく、常備薬としてオキシトシン受容体作動薬の服用が子供の時から行われている。オキシトシンはつながりやスキンシップにより分泌されるホルモンであり、回避型はこのホルモンの分泌が非常に少ないからだ。
しかし、ここに深刻な問題がある。「ゴースト化」と呼ばれる、人格の希薄化・消失だ。人格の気化と言われることもある。回避型の求める個の在り方と、オキシトシン投与による自殺衝動性の回避により得られる感覚は、正反対の側面を持つからだ。民主主義ならぬ、徹底した個主主義は、個人の人格を実態の失った幽霊のように希薄にすることになる。そのさらに先に、AIにより管理された日常生活から、自分そのものが蒸発してしまうという現象も起きていた。自殺はそのような現象の中で起こってしてしまっている。
失踪から4年たって見つかった男がいる。通常、1年くらいたって見つかることはあるが、多くは自殺の結末を確認するにとどまっている。
調査の結果、男はオキシトシン受容体作動薬も飲んでいなかった。
スラムで女と暮らしていたのだ。
女は共感型。
1歳半になる子供までいた。男は、オキシトシン受容体作動薬のことも忘却していた。
調査員が訪れ、男が忘却した間の事実を告げた数日後、男は公衆トイレで首を吊って死んでいた。
調査員たちは、なぜオキシトシン受容体作動薬を中止したまま生きられたかについて理解できなかった。唯一理解したのは、彼の妻だった。彼らは愛し合っていたからだ。
著者はここで物語的に話を終えている。これは想像しうる未来の一場面で、ほんの序の口だとしている。愛着という“束縛”を脱し、公的機関に身をゆだねるが故に、温もりも気持ちの交流もない。一過性のものにすぎないのだろうか、と締めくくっている。
2.著者について
岡田尊司氏は大阪で開業している精神科医であり、小笠原慧の作家名で活躍する作家でもある。東京大学の哲学科を中退して、京都大学の医学部に入りなおすという少々変わった経緯で医師になられている。いずれにしても頭脳明晰なのですね。
1960年生まれで、私の父と同じ香川県出身。
精神科医として、「生きるための哲学」「愛着障害の克服」「過敏で傷つきやすい人たち」「死に至る病」など、著作多数。また小笠原慧の作家名では、「あなたの人生、逆転させます」「DZ」「風の音が聞こえませんか」など、精神医療や、人の心理を題材として物語を、氏自身の臨床経験を物語の中に滲ませながら描いている。「DZ」は、第20回横溝正史賞正賞を受賞している。
医者の著作、中でも精神科医による著作は多数あるが、その中でも難解な言葉や専門的な世界にこもる説明を避け、一般の人々の日常的な精神活動、心の動き、想い、そういったものに徹底して寄り添い、共感する姿勢は、ともすれば説明的、理屈的、正しい話になりがちな他の著作と一線を画した暖かい視線になっている。
3.気づき
明治維新以降、近代国家が成立して国民一人一人、つまり私たちそれぞれが、望むと望まざるとにかかわらず人生の主人公となって生きる社会が出来上がった。それまで組み込まれていた、固定された身分や経済規模による暮らす場所や収入や社会の中の立ち位置としての限界が取り払われ、自己決定が求められるようになったためだ。
これを書いている2020年は、そんな社会が到来して150年余り、第二次大戦終結から75年ほど経過している。その中で、特に前世紀の終わりくらいから、専門家によって提唱されるようになった遺伝によるとされる心・精神に起因するとされる数々の症状 - ADHD、BPD(境界性パーソナリティー障害)、摂食障害など - に対して、岡田氏は育成環境を要因とする側面が従来よりずっと大きいことを主張し、警笛を鳴らしている。
育成環境の問題は、別の側面で、今世紀に入った頃から顕著に取り上げられるようになっている。別の側面とは、心身の暴力、夫婦不和、ネグレクトや貧困など、養育環境のことだ。
人格はこれらの環境によって生み出される面があるが、そんな環境で身に着けた“世界観”を抱えて生き残ろう(生き続けよう)と誰もが苦しみ、試行錯誤している。そんな人々に対して、健康的、正常と考えられている世界と融合する術を氏は各著書の中で都度述べておられる。
人の家庭的、生い立ち的に抱えている問題の相談にのった経験と、個人的な考えの双方から私自身が感じているのは、遺伝性という理由付けのあやふやさである。ゲノム解析は確かにこれまで不明だったいくつもの遺伝的要素を解明しつつあるが、最先端であるがゆえに我々一般人が扱うには不確定なことが多いのもまた事実だ。そうであるにもかかわらず、ある一定の発見・成果にかかわる部分がクローズアップされて、独り歩きしていることは少なくない。
私はうだつの上がらない研究技術職・電気工学者上がりだったためか、先端科学の曖昧さというか、ある種の不明部分の解明なる結果の独り歩きが、後から覆される現実を見てきて、それがとても怖い。
なお、心の症状の遺伝的要因という説に対して、バイオテクノロジーの権威である村上和雄先生は次のようにおっしゃられている。遺伝子を機能させるかどうかは、その遺伝子を保有している人がその遺伝子(の機能)をオンするスイッチを入れるかどうかであり、それは心の在り方(喜びや幸福感、哀しみや不幸な感覚など)によるものである。例えば、鬱の遺伝子は実際に発症するよりずっと多くの人が保有していることが明らかになっているが、それは裏を返せば、発症せずに済むような心持ちで生きているということになる。
その昔、フランスでアンファンテリブルなる新しいタイプの子供たちを示す言葉があった。日本でも、新人類という、それまでの歴史や伝統と縁が乏しく見える子供たちをさす言葉が生まれたことがあった。
この著作では、回避性愛着という人格に、ネオサピエンスというネーミングを付している。否定的、行き詰まった環境の中で描かれた人々の生き残りと、AI化やネットワーク化、ビッグデータの利用といった現代社会が向かう近未来の世の中における人のつながり方の予測は、現在、人の関係や仕事や家族や収入のことで行き詰っている私たちにとって、あまりにリアルに迫ってくる。愛着を求めることによる情動的な弊害というか混乱や痛みといった辛い体験を味わわずに済む世界の構築、自分の在り方、人との距離の取り方を想定し、先進各国の家族をはじめとする人の関係の傾向についても、すでに予兆以上のものが見られることをスウェーデンモデルを例示しながら説明している。また、イスラエルの「サピエンス全史」の著者でもあるユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を引用し、回避型の持つ傾向と支配的地位に至りやすい社会的な構造と論理の正当性、その裏側に見える生きる意味の喪失といった疑義を提唱したところは、私にはダブルスタンダードとさえ見える回避性愛着者(ハラリ自身)が求める論理が行きつく先の矛盾を示しているように思える。
いずれも、私たちが当然と受け止めていた、親子間の愛着や人々の間の共感性といったものが“存在しない”“存在しなくても機能する”社会のモデルの成立過程と構成を述べていて、それが行きつく先のショッキングな予測で締めくくった一例は、万人に当てはまる生き方のアンチ示唆であり、ある種の救いだ。
回避型の感覚は、私には気持ちがよくわかる。私は肉親を“フツーとは異なる”失い方をしていて、その影響故に社会に対して不信を抱いていた時期があった。そんな時の人間は、周囲のちょっとした“吹っ掛け”にさえ神経を尖らせ、傷つくことも少なくない。そういった状態では、人との距離は広がるばかりだし、当人は徐々に引きこもるか問題児になるかだ。愛着を回避するとは、回避せざるを得ない辛く哀しい出来事が続く中で、愛着に依存しなくとも人の中で自分が生きられる方策として、自らの心の在りようを内在化した、その人なりの処方だと言える。
人の愛着の問題は、論理以前の物語である。
ちょうど家族の離散があった頃、資本主義社会の成立要件について学んでいたことがあった。なぜ自分の家族がそんなことになってしまったのか、その原因を知りたくて、宛てもつかず、随分明後日の方向にあちこち触手を伸ばしていて、その一環だった。当然、学ぶ過程で知った何らかの理屈が、当時の家族の生い立ちとの関連で琴線に触れたというのもあったのかもしれない、というか、あった。
その関係性の話は別の機会(日々の棚卸で触れてます)に譲るが、少なくとも、ここでこの著書の内容と大きく関係することは、資本主義の成立要件の根幹にあるものと、成立後の資本主義システムの拡大再生産についてだと思う。
(ここではヨーロッパの資本主義社会について話をさせていただきます)
中世まで悪徳とされていた利潤を得ることは、資本主義社会の到来により、是とされるに至った。詳細は省くが、神の意志である隣人愛を実践する仕事によって生じた利益もまた神の意志に沿うことであり、これを実践する場合にのみ、利潤は是とされる、という理屈が受け入れられるようになったからだ。ちょうど国民国家という、先に挙げた私たち一人一人が主人公である社会の到来と軌を一にして始まった仕組みに必要な経済システムとして、このような解釈がもたらされた。よく、産業革命が起こって資本主義社会がスタートしたというが(私たちの子供の頃は学校の授業でそのように習いました)、実際には、資本主義社会という国民国家=一人一人が主人公の人生に必要な経済システムを求める暗黙の機運こそが、産業革命をもたらした、というのが本当のところらしい。
さて、資本主義の成立要件は、神様というとても抽象度が高く、厳格な主義主張を先に述べたように解釈することによってもたらされた、まさに盲亀の浮木のごとき発現だが、この時すでに当時の偉い学者さんたちが危惧していたのが、そのシステムの暴走である。資本主義システムは一度発動してしまうと、後は自動的に拡大再生産されるというのである。それがなぜ危惧かというと、利潤のもとを判断しようがないということだ。
つまりそこには、神の意志としての、つまり隣人愛という『愛着』をベースとした人の関係に基づく利潤かどうかを知る(取り締まる)ことが、本質的にできない、ということである。内面の問題となってしまうからだ。
法的に取り締まるのは、結局のところ法人化(=擬人化)された存在への働きかけにすぎず、法人間の隣人愛の実践なるものとは別に、人間一人一人のありようとしては、当時の危惧はそのまま残ってしまっているのだ。
仕事としての人の集まりは、基本的に機能集団だ。共同体的要素が最初はあるとしても、徐々に取り払われていき、最後に機能的要素が効率性に働くことで集団の生き残りが達成される。それはまさに、この著書でいうところの回避型の得意とする領域になる。
先進各国で、ワークライフバランスや育休といったことが取り入れられ、特に大企業を中心に導入が進んでいる。あるいは少子高齢化、晩婚非婚対策が取りざたされている。
これらの問題に最も大きく関与しているのは、まさにここで取り上げられた回避型愛着という一つのスタイルである。その視点からメスを入れていく必要性を感じて仕方がない。
4.おすすめ
心の問題を扱った本は昔からあって、そこに精神科医や心理学者が登場するようになった中では、元文化庁長官の故河合隼雄氏が有名だと思う。
「新橋のガード下で飲んでる上司と部下のサラリーマン、あれはね、部下が上司のカウンセリングをしているんだよ」というようなことを述べておられた記憶があって、なるほどね、と妙に納得したことがある。
著者について、のところでも述べたが、岡田氏は、数ある心理学者や精神科医の中でも、専門的に知識と現場に沿った感覚と人々への愛情がバランスよく感じられる方だと思う。私自身が混乱していた頃、何とかそんな世界を脱したいと感じていて手当たり次第に読破した数々の著作には、共感できるものもあれば、読んだ直後だけは何とかなるかもと感じたもの、否定的に感じられるもの、納得するけれどそれで?というものなど、様々だったが、氏の一連の著作は、私たち迷っているものに寄り添いながら、自分の力で生きていけるようになるために、できることを日々地道に積み重ねることの大切さを説いておられる。
その場だけの気分の高揚や、ドキドキわくわくは、それらが自然に湧き出てくるものであればいいと思う。ただ、行き詰った、生きづらさを抱えているが故に、こういった著作に手を伸ばして、少しでも自分が納得する人生を生きようとしてヒントを得たい読者にとって、専門家という看板をきちんと立てた上で、何をどうするとどんなことが期待できるところまでを、その背景を明らかにして説明してくれる氏の著作は、時間をとって読むに値するものだ。
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