私たち全員が内包している機能がある。それはエラーだ。
誰もが間違う。
ミスる。
勘違いする。
トラブり、凹み、怒り、哀しみ、焦り、卑下する。
ここまではよくあることだ。
しかし、この苦痛が続くうち、自分の存在に対して懐疑的になることがある。なぜこんなに苦しいんだ、どうしてこんなにダメなんだ、消えてしまった方がいいんじゃないか、など。そしてしまいには、生きていていいんだろうか、とまで思うようになる。
これが、エラーだ。
小さなことなら、気にする必要もない。だが、日常生活に影響をきたすようなら、無視もできない。先のような気持になるばかりか、日常の行動でもそれらを表現するようになる。知人の中で泣き喚いでしまう、人の行為に腹が立って仕方がない、お酒を飲みすぎて毎日遅刻する、自分がみじめで人前に出られない、自分がくずに思えて仕方がない、大切な人を助けてあげられない。
数え上げればきりがないこれらの「症状」がエラーだ。
エラーと言われてもピンとこないかもしれない。心ならずも、気づくと望ましくない状況・状態で自分を受け止めていること、というと堅苦しいけれど、意味は伝わるだろうか。
いくつかの精神疾患などもこの範疇に入ると思う。対人恐怖、気分障害や適応障害などはそう置き換えても差し支えないと考えられる。一つの例として挙げられる対人恐怖はTaijin-kyofuと英語でも使われている言葉だが、私などは若い頃、人どころか街自体が怖くて、夜になると建物が自分を見つめているような感覚にさえなって怯えていたし、そういう状況から脱した後もスピード違反で何度も捕まったりした。それであっけらかんとしていられるならそれもいいが、当然のごとく落ち込んで、自分に対するふがいなさとイライラが募り、なすすべも知らないまま日々を過ごしていた。
なんでこうなるんだろう。
何でこんなに苦しいの?
・・・・・。
「エラーだから」
カウンセリングや病院でいわれて終わりにされたら、私ならずともきっとむかつくと思う。
エラー。
そう呼ぶ状況が一時的な現象ではなく、日常の中で継続的に形を変えてあらわれ、自分に対する自信が消えてしまうのなら、それは一つのメッセージだ。エラーは生き方に対するメッセージを伝えている。だから、エラーを起こした自分に対して、反省はしてもいたぶってはいけない。
島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」では、家に入った泥棒に食料を与えた後で、ばあちゃんが洋七に以下のようなことを言っていた記憶がある。
「これだけ多くの人がいるのだから、少しはおかしな人がいても不思議じゃない」だったかな。
繰り返すが、人は必ずエラーを起こす。自分を振り返って、エラーで彩られた人生だったから言い訳するつもりも多少はあるかもしれないが、とりあえずそれは脇に置いた上で言わせていただければ、これは紛れもない真実だ。
エラー。
何かをして、あるいはしなくて、自分または他の誰かを傷つけたりすることもある。しかし、さりげない一言が相手を傷つけた、相手を思いやった行動が結果として不和を招いた、などはエラーの内に入れてはいけない。これ以上ないほどまともなのだ。
今この文章を読まれている方はきっと、自分の考えを厚かましく主張している私のような輩より、ずっと奥ゆかしい方だと思う。だから、お前なんかに“まともだ”と言われたところで、慰めにもならん!とおっしゃりたい気持ちをぐっとこらえておられる方もいらっしゃるかもしれない。私もなんだかそんな気がしないでもないから、特に異論はありません。まあ、数え上げるほどしか読んでないとは思うけどね。
ただ、もし今あなたが自分の存在に猜疑心を持ってしまわれているなら、つまり自分を消してしまいたい、とか、ひどい奴だ、とかいった感覚を抱いているのであれば、これだけは知っていてほしい。
その感覚はエラーです。
エラー、つまり最初に述べたように、間違い、ミス、勘違いが発端となって、自分を貶める受け止め方。
猜疑心に囚われている人は意外に多い。
もっとも、そのあらわれ方は、自分に向かず特定の他者や社会に向いていることもある。
人はその人の世界の中で必要のないことはやらない。猜疑の念を抱く人は、そのように世界を見ているからであり、当人たちにとってはそう見るべき理解を過去に必要とした時期があったのだろう。実際のところ、まったくこれなしに生きていける社会というものも
、特に先進国と呼ばれる国にはないのも事実だと思う。
各自が設定したそんな環境の中で、私たちは苦しんで、哀しんで、怒って、とかく感情を害しながら、先に述べたように自分の存在自体に猜疑心を抱くようになっている。
だが、考えてみてほしい。人からどう見られようと、あなたは自分に起こった出来事がによって苦痛で苦しんでいるし、哀しくて哀しんでいるし、あまりに意に添わなかったりひどいと感じて怒ったりしているのでしょう。つまり哀しむ理由と哀しいという感情、苦しいという理由と苦しいという感情、ひどいと感じる理由と怒りの感情といったように、理由と感情とがきちんと結びついている。これほどまともなこともない。
仮に、マゾヒストでもないのに、通りすがりの通行人からいきなり殴られたらうれしくて涙を流したり、大切な人をなくして涙を流している人を見て理由がわからなかったり、というのであれば、これは精神的な病か、あるいは心がやられてしまっている状態だ。これは、病院に行って治療を受ける必要があるだろうし、おそらく一般社会の中で生きていく上で、大きなトラブルの元となる可能性がある。
みなさん、そうじゃないでしょう。
私が、表題を掲げた理由は、そういう意味だ。そして、生きていく上で、それ以上にまともさ、正しさ、正当性を求める必要など、さらさらない。
それでももし、そうやって自分の中に湧き出してくる怒りや哀しみ、苦痛の感情に苦しんでいるのなら - いいですか、繰り返しますがこれはあなたがまともな証拠です - 目の前の事象にとらわれすぎないでほしい。きっといくつかの出来事の連なりが長く続いて、おおもとの原因がみえなくなってしまっているのだろうから。
たかが、まとも論だ。
でも猜疑に走ると、人は際限なく自他を追い込む。その先に未来はない。
私は至極まともな人間だ。泣いて、怒って、拗ねて、僻んで、落ち込んで、自分がどっかでおかしいんじゃないかと心配になって、びくついて、お先真っ暗と絶望して・・・・・。この世の中で生きていて、こうならない人なんてそうそういない。どこかで誰もが陥っている本質的な証拠のない感覚、得体の知れない症状だ。ある意味そこに浸っていると、冒険するという気概とかチャレンジがもたらす失敗や恥の感覚から逃れる言い訳ができる。
今日のことに限らないが、思考が変わっただけではすまないことはたくさんある。ことに、幼少時代から刷り込まれたものは皮膚感覚に沁みついているものだから、これを変えていくには繰り返し自分と向き合う日々が必要だ。
それを今日知った。
みんなまともだから。
・・・・・でも、まともじゃなきゃいかんのかな?
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