人が作った仕組み~会社や家庭などの人工ブツに自分を見失わないために

日々の棚卸

 

1.人工ブツが私たちにもたらしたもの

人工ブツ。

必要は発明の母。

人の社会は、人工ブツを必要に応じて

作ってきました。

会社も街もその典型。

都心のビル街をイメージしなくても、

法律や社則を思い出さなくても、

太古の昔からご先祖様たちは

必要に応じて有形無形、

様々な人工ブツを生み出してきました。

 

人工ブツは、これを作ることによって、

自分たちの生活、生き方が少しでも

良くなるようにという、

人の想いの集大成。

そしていわゆるシステムです。

システムだから

それ自体が維持されるようになる。

システムとは疑似生命体と言っても

いいでしょう。

会社勤めがどうにも苦しかったり、

家や学校に居場所がなかったり

そんなときには

システムの維持が最優先されて、

そこにいる自分が蔑ろにされて

いることが起こっています。

 

2.昔からあった人工ブツ

繰り返しになりますが、

人工ブツとは、

人が意識的、無意識的に

その必要性を感じ取り、

生み出したものです。

森や川や海や山は、

人工ブツとは言いませんよね。

花や草や果実や動物ももちろん、

人工ブツではありません。

 

では品種改良された植物はどうでしょう。

人工交配された動物は?

神社仏閣はどうでしょう。

武家社会は?

軍隊は?

 

これらの人工ブツは、

人によっては、

とてつもない苦しみを

もたらすことがあります。

現代社会において、

会社と家族は現代に生きる私たちにとって、

その代表的な2つではないでしょうか。

 

会社に行こうとすると、

足が止まり、

動悸が激しくなり、

嘔吐感が生じる。

これでは、

生きるために収入を得る場所で、

命を削ることになってしまっています。

虐待を受けていると、

家族の中が修羅場になる。

これでは、

安らぎと受け入れと活力を得る場で、

信頼や自尊心が崩壊していきます。

 

3.システムの外にある世界の大切さ

私たちが生き続けるために、

あるいは命が存在を続けるために、

私たちは2軸を利用しています。

必要としているといってもいい。

私たち人間という自然ブツは、

それだけでは人の命が失われたり、

生きづらさや生活の苦しさに

どうしようもなくなったりして、

そこから脱するための方策として、

先に述べた通り、

人工ブツを生み出してきました。

人工ブツは最初、

私たちの想いとともに、

生れたわけです。

そして、資本主義というシステム自体が

そうであるように、

一度形作られた人工ブツは、

その存在の維持自体が目的となって

存在し続けるようとして、

内部を構成する人やモノやお金を

駆使するようになります。

これはある種の宿痾であって、

これ自体をどうこうすることは

できません。

 

人工ブツと関わっている私たちが

そこに居づらさを感じるとき、

2軸のもう一つである自然に

心身を浸すことが必要です。

ここでいう自然とは、

前述した森や川や海や花や

そういった場所に身を置くことを

意味すると同時に、

もう一つ、そしてもっと大切な

ことを含んでいます。

つまり、自然の一部である私たちの

心と体のメッセージを汲み取り、

その要求に沿うように生きることが、

私たち自身がぼんやりと考えるより、

ずっと重要になってきます。

 

想いをかなえる人のつながりは

人工ブツの維持の中にあるものとは

まったく異なります。

その差異は、

人工ブツに対する自然、

ルールに対する心・魂(感性)という

対比となって見られます。

くどいようですが、私たちは、

生きる必要性に応じて

人工ブツを作り上げてきました。

もう一度。

必要だから、作られてきたのです。

 

人工ブツは人が作り上げるものですが、

純粋に無機的な部分、

例えば電子や機械やソフトウェア

といった無機的な領域を除けば、

人が絡みます。

人の情が、経験が、判断が、傾向が、個性が

絡んできます。

必然、人工ブツは、

そこにかかわる、

自然の一部であるはずの私たち人が

おかしくなることによって、

本来の機能を発揮できなくなります。

家族の中で暴力が振舞われたり、

会社の中で干されたり、

共同体の輪からのけ者にされたり。

そんなとき、

人のニーズにしたがって

生み出したはずの人工ブツが

本来とかけ離れて機能していることを

私たちの心が感じ取っているのでは

ないでしょうか。

 

私たちは生まれた時から既に、

人工ブツではない自然の世界を

自らの中に宿しています。

その、外と内のギャップ。

 

他人と過去は変えられないと

言われます。

人工ブツの働きを自分個人の意志で

変えることも

即座には難しいでしょう。

人工ブツの本来の目的のために

多数の弊害が出るようになって初めて、

見直しが入るからです。

 

行き場所がない。

やれることがない。

どうにもならない。

そうやって追い詰められていくとき、

心・魂が求めていることを

感じてみてください。

自分が正しいとか間違っているとか、

システムがおかしいとか、

そこでうまく生きられない自分が悪いとか、

そういった視点は脇に置き、

まず感じることを試みてください。

それはきっと自然であり、

自然体の自分であるところですよね。

 

人工ブツが0の世界では

私たち人間は簡単には生きていけません。

中にはそういう人もいますが、

人の社会の中で生まれ育ち、

それなりに愛着を持っている

私たち大多数の人は

必要な人工ブツを利用して

生きているからです。

 

自分に必要な人工ブツを

自分で生み出し、与えること。

それができるといい。

 

4.求める世界

街はずれの自然に出向くのもいい

気の置けない友人と時を過ごすのもいい。

生きて、食べていく必要がある私たちは

明らかにそういう場所を必要とします。

そこに会社という既存の人工ブツとの

折り合いがどうしてもつかないのであれば、

しっかりと休む、

そしてここまで生きてきた自分を

きちんと肯定する、

並行して、自分の内側から出てきた

メッセージに沿って

自分に合った働き方を知り、

その実現方法を考えることです。

転職も、起業も、休息も、

生き方そのものも、

そういった基準で見直したとき、

新しい視界が開けてきます。

 

大きく稼ごうとしたり、

難しく考えるから、

ややこしくなると思うのです。

心と体が悲鳴を上げながら、

ローンを組んで家を買い、

家族もいるから

今の仕事を手放せない、

などといったことは

明らかに本末転倒だと思います。

 

サラリーパーソンという生き方は

実は安定でもなんでもありません。

これは高度成長のほんの一時期、

安定的に見えた幻想です。

今の働き方は、

明らかに命を削っているでしょう。

命を削ってでも、

今のその仕事を続ける理由があれば、

それでいいけれど、

…ないですよね?

 

すべては幻想です。

自分の内面が生み出しています。

そして、自分の内面は

とても、ほんとにとても大切です。

だから少なくとも、

自分にあった人とのつながり方、

収入の得方を求めること

言い換えれば、

自分に必要な人工ブツを想起し、

実現していくことは、

自分を大切にすることであるとともに、

私たちが生きる資本主義社会で

本来求められていることです。

 

働き方、暮らし、人のつながり。

自分にあったシステム。

今いる場所が苦しいとき、

自分に合わない土俵で生きていたり

しないでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『河原の散歩より』