残念だけどそれは代用にはなりません

日々の棚卸

 

何かを取り返そうと思って

躍起になるパターンについて

考えてみました。

 

負けが込んだギャンブルで

失った資金を取り返そうとして

ますます深みにはまっていくケース。

 

孤独感、寂しさを埋めるために、

まるでスペアを用意しておくように、

複数の彼・彼女を作ること。

 

人並みに物が与えてもらえず、

哀しく惨めだったという理由から、

お金と社会的地位を求めて生きること。

同じことは、

不幸を体現する両親と

殺伐とした家族を助けることを信じて、

実践される場合もあります。

 

いずれにしても求めるものは、

満たされなかった過去の代用物。

代用物は、その名の通り、

家や車や宝石や別荘やクルーザーなど

だったりすることもあれば、

豪勢な食事やお酒だったり、

何かの会員権や資格だったり

することもあります。

でも、代用物と言いつつ、

一番多いのは、

世の中からの評価という

承認(と当人が思い込めるもの)では

ないでしょうか。

 

モノにあふれたこの時代、

昔よりずっと

満たされることは簡単になったはずだけど、

そういう方は昔も今もたくさんいます。

その考えを肯定も否定も

するつもりはありません。

私を含めて、誰もがどこかで

承認される欲求は持っているし、

それが健全に機能する分には、

とても有用なものだからです。

 

ですが、ここで2つだけ

コメントしたいことがあります。

一つは、自分の望みと世間の評価を

混在させてしまって、

自分が本当に求めていることを

勘違いしてしまっていないか

ということです。

もう一つは、

何一つ達成していなくても、

幸せに生きている人や家族は

いくらでもおられるということ。

 

もし仮に、

あなたが必死になって、

頑張って生きて、

上述のような代用物、

つまり本来自らの中に育っているべき

承認欲求を外部に求めているとしても、

そう生きられる方の気持ちは、

痛いほどよくわかります。

別に、誰かを貶めてやろう、とか、

裕福な人から富を奪ってやろう、とか

いうことではなくて、

失くしてしまったもの、

不足が、自分だけでなく大切な人をも

苦しめた過去を繰り返したくない、

意識してはいなくても、

心の底流にはそんな思いが流れていて

いると思うからです。

ただ、

それが自分を突き動かし、

頑張って我慢して、

少しずつ実現に向けて動き出すに従い、

気がつくと、

去と同じような人生を再現してしまう、

…そんな循環に陥ってしまうことが

少なくないのも事実です。

 

よく言われるように、

世間の評価とは、

往々にして親の評価が自分の中に

根付いたものです。

評価とは言い換えれば、

世の中の見方、受け止め方、

人という存在の在り方です。

世の中とは“こういう”ものだ、

“こういう”とは、

力を持っているものが弱いものを虐げ、

自分はいつも誰かに騙される被害者で、

立ち回りのうまい人間ばかりが得をする、

自分は何の力もなくて、

人に迷惑をかけてばかりで、

何より自分の中に自分を勇気づけ、

自分が納得する人生を歩む力はない、

…といったようなことです。

それらがないから自分は不幸なのだ、

とすりこまれ、

それを体現するような生き方を

背中で見せられて育つうち、

そこに苦しむ親の感情を代用して、

親が求める世界の実現に向けて

邁進するようになる。

 

一流大学を出ること、

大金を稼ぐこと、

社会的に名を成すこと、

メディアで有名になること、

誰からも称賛される美を持つこと、

大好きな人と一緒になって幸せになること、

子供たちに多くの選択肢を与えること。

それらができるなら

それはそれでいいと思うのです。

ただ、本気でそうしたいのなら、

とても抽象的で、

具体的に自分が何をどうして

生きていった“結果”そうしたいのか、

が見えていないと

途中で迷子になってしまいそうですが。

 

私たちは皆、幸せになろうとして、

今ある幸せを感じるべくして

生きています。

意識上でそう感じていなくても

皆がそうして生きています。

一見、被害妄想や怒りの感情の嵐に

包まれている方だったとしても、

他からは歪んだ生き方をしている

ように見えても、

彼・彼女なりの方法で、

彼・彼女なりの幸せを感じようとして

生きています。

 

彼・彼女なりに、自分や身近な他者との

つながりに幸せを感じながら

生きられるように、生きています。

たとえ傍から見たら、

暴言と衝突の繰り返しの日々を

送っているように見えても、

それがその人たちなりの幸せです。

 

彼・彼女とは、私たちのことです。

 

きっと誰もが、

大なり小なり歪みを持っていて、

その中でも何とか、

自分がより良い人生を生きられるように、

試行錯誤している。

 

だから、それ自体を否定批判する

必要なんてありません。

ただ、それが何かの代用として

求めていることではないのか、

ということを今一度

振り返ってみてほしいのです。

 

世間の物差しは代用にはなりません。

誰かの価値は、代用にはなりません。

 

代用にはならない、ということは、

それを求めているうち、

自分が何をしているのかわからなくなって、

自分を見失い、

本来脱却していようとした世界を

実現してしまいかねない、

ということです。

 

そういうことです。

 

ー今回の表紙画像ー

『ドライブ中の空』

気温は高いけど、晴れ渡る日が続くようになりましたね。