自分の行動や考え方とは関係なく、
大切な関係が破綻することがある…、
原家族が壊れ、
自分自身の存在を疑うようになり、
言動から自信が根こそぎ失われ、
そこからの回復を目指して心にメスを入れ、
専門家に相談し、仲間と議論を重ね、
自分が相談を求める者の話を聞く側になり、
何でも自分の責任だなんて考えるな、と、
説き続けるようになっても、
そう考え続けていました。
自分の行動や考え方と、
大切な関係の破綻は
関係がない。
社会人が自らの関係性を語るには
言い訳として使うことが
いささか憚られるけれど、
原家族のように、
子供時代に色濃く影響を受けていたならば、
世間が何と言おうと、
人の心の成り立ちと家族の関係からすれば、
その“破綻”は、
自分の行動や考え方とは関係ない、
そう考えることが自然なのかもしれません。
特に、破綻した関係がもたらした
心のひび割れや懐かしい原風景の破壊を
その後に引きずって生きていると、
逆説的に、
それ以外の解はないように思えます。
原家族の中で繰り返された、
罵り合い、互いに憎悪をぶつけ合う関係、
怒鳴り合い、互いに要求ばかりする関係、
争いを丸く収めるより、
自分たちの正しさを優先する関係、
モラハラな言動、泣き言、一人よがり、
相手に変化を求め、自らを正当化し、
怒り、憤り、恨み、哀しみ、頽れる…
それでも生きようとした子供時代、
そんな空気で満たされ続けた空間を
自分なりに支え続けようとして、
今度は自分自身が二進も三進もいかなくて
もっと自分の方を支えようとあがくうち、
気がつくと、大切な関係は
破綻してしまったり、
破綻の一歩手前だったり、
場合によってはそんな表現では済まないほど、
残念な結末だったり…
★
哀しい関係が所詮は無関係と言うなら、
ホントに楽なのかもしれませんが、
この世の中には、
自分と関係のないものは存在しない、
私はそう思います。
もしあなたがこれまで述べてきた話と
類似の境遇を送ってきたならば、
どうか、一足飛びに
批判と受け取らないでください。。。
大切な関係がおかしくなってしまったのが、
あなたの能力不足だとか、
自らの不明のためだったのか、
と問われれば、
きっとそんなことはないはずです。
そもそも子供そんなことを期待するのは
筋違いというものです。
あなたに責任があったのか、と問われれば、
そんなことはないでしょう。
ですが、関係がなかったのかと言えば、
……
関係はあったんですよね。
関係は、あった…
いえ、今も、そしてこれからも、
あるんです。。。
★
先に、一足飛びにならないで、と
申し上げたように、
だから、あなたが悪い、ということでは
もちろんないんです。
もしかしたら、
破綻しかけた家族に向けて、
もう一度皆で生きようと働きかけて
反発していた互いの情動を
もう一度建設的に、そして自律的に
繋げるようなことが、
できたかもしれません。
稀有ですが、そんな事例もあるにはあります。
そうやって、崩れかけた大切なルーツが
再び結び合うと、
子供は自身を取り戻します。
よく根拠のない自信などと言いますが、
根拠はあるんですよね。
ただ、
ほとんどの子供は、無力に苛まれた自分を、
それでも生かそうと必死になっていて、
あるいは、壊れかけた形を
修復しようとあがきつつ、
実際には壊れかけた形を
支えてしまっていたりします。
そんな状況下では、
自分の存在自体が希薄に感じられて焦り、
同時に、
自分の中に宿った複雑な感情も相まって、
その場所からは目を背けて、
大人の年齢の時間を必死になって、
光に彩られた、誰からも見えやすい場所で、
自分を探し続けてしまう。
自分のいない場所に自分を探しても、
ひたすらに時を浪費し、
彷徨い続けるだけです。
そこには、自分を受け入れ、
自分自身であるあなたはいません。
★
でも、それだけなら必ずしも
問題ではないかもしれません。
いえ、十分問題かもしれないけれど、
目を背けていた場所の大切さを認めていれば、
虚栄に包まれた世界を放浪していても、
そして気持ちは良くなかったとしても、
自分を見失い切ることはないはずですから。
ではなぜ、目を背けたままでは
問題なのでしょうか。
一言で言えば、
生きる基準までをも見失ってしまうから。
その基準は間違いだった、と
断罪するのはやさしいけれど、
そういう人は必ず躓きます。
なぜなら、そこには、
恩恵もあったから…
怒りや恨みや哀しさと同時に、
懐かしさと愛着もまた、
そこにあったはずということ。
それがあなたの原風景。
大切な、たいせつな原風景。
そんなことはないでしょうか?
違うって?
でも、そんなに怒ってるじゃないですか。
そこまで憎んでるじゃないですか。
目を背け続けて、もう関係ないんだと
頑なに拒んでるじゃないですか。
必死に遠ざけようとしてるじゃないですか。
それは何を基準に
そう感じているのでしょうか。
その基準はどこでどのように作られた、
というより醸成されたのでしょうか。
その場所は確かに、
いつまでもいてよい場所ではないし、
いつまでもいられる場所でもありません。
だから、しっかりと訪れて、
今のあなたの善き部分を構成する、
見失った自分の感覚をみつけなくちゃ。
その先にしか、
あなた自身であるが故に
ひっそりと、それでいて感動で心が震え、
これだ、と言える未来はありえません。
よく耳にする、
自分自身である、とは
そういうことだと思いませんか。
ー今回の表紙画像ー
『テナガエビの空揚げ』
近所の川で前日に取ってきたテナガエビ(↑)を、一日泥抜き。
片栗粉付けて油の中へ投入!んまぁ~い。
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