私たちはどの時間帯を生きているだろうか。
今ここと言われて久しい。というか、ずっと昔から言われているような気もする。
人生を楽しむ秘訣、それは今ここに生きることだ、なんて。
子供の頃、授業を聞かずにボーっと外を眺めていると、集中しろと言われてよくポカっとやられたものだ。
いつやるの、今でしょ、という有名なセリフもある。
火事場のバカ力じゃないが、ここぞというときには人一倍集中力を発揮することができた子供時代はともかく、いろんな経験をした後ではこの『今』というキーワードが随分違って聞こえる。
今とは過去であり現在であり未来である。
なんだそれは・・・。
現実と幻想の関係を、カールロジャースの言葉を引用して取り上げたことがある。人にとって、現実とは幻想のことであり、その人の心の中(=幻想)こそが現実である。よく考えなくても、特定のものやシーンに対して万人の解釈が異なることを考えれば、ある意味当たり前のことだ。
それにのっかるわけではないが、ここでいう『今』という言葉もまたそういうことだと考えて使っている。
ある目的を達成することを考えてみよう。この時、目的の達成を意識するかどうかで成果は大きく異なる。先の“集中”を実際に実行しようとしてみるとわかるが、意識したからと言って即実行できるとは限らない。反対に、意識するかどうかとは関係なく実行できてしまう人もいる。だが、私のような超凡人が何かちょっとしたことを行おうとしたら、まず意識して、それが身体の中で情動を伴って動き出して、うまくすればそれなりの結果をもたらしてくれることを期待する。そうやって自身に働きかけていくことを繰り返すことで、目的を達成する幸運に恵まれることもある。
では、そのように意識して動き出す原動力を発揮する自分とはいったい何だろうか。そう問いを立てて出てくる答えは、これまでの蓄積によって出来上がってきた自分の集合体と言えると思う。私たちが今ここを生きるとき、何をどう考え参照しようと、あるいは周囲を見回そうと、最終的な判断と言動の選択は常にこれまで生きてきた自分の集積の上で行われている。未来と呼ぶ時間帯はよくいわれるのようにこれまでの延長線上にあるかもしれないが、それはそうやって無数の過去の断片を感じ取り・解釈しながら生き続ける自分がさらに蓄積され続けていった先にあるものだ。だからこそ、今“まで”がうまくいっていない場合、時に私たちは絶望し、人生を投げ出してしまいたくなる錯覚に陥りもする。錯覚と言ったのは、蓄積したものは変えられないところにのみ焦点をあて、それがこの先も不変だと思い込んでしまう“勘違い”を往々にしてするからだ。蓄積された過去は変えられないが、その中の何を参照するかはその時のその人の選択によるものであって、この対象となるのは決して全ての過去ではない。繰り返しになるが、その人にとっての『今』を説明するのに都合のいい過去のみを取り出してきて、勝手に解釈づけているのだ。それをして都合のいい、という言葉をあてるのは癇に障るだろうか。
確かに過去=集積した自分の解釈と選択は、これ以上つらい目に合わないように生きるために必死になって考え、感じた末のことなのだから、当人にとってはいたって真摯な思考たるものであることはとてもよく理解できるし、共感もする。だが、そこまで来たならもう一歩解釈を広げて、全ての過去を参照したらどうかと想像してみることができないものかと求めてしまうのは酷だろうか。全て、は言葉の綾だが、少なくとも使っていない過去は、間違いとは限らない、もっと自分に寄り添い、もっと自分を信じた選択と解釈はあってよいというところにくると違った道程が見えてくる。
もっとも、ここに重度のトラウマ・PTSDという症状が絡んでくると自分の力だけで歩みだす途につくことは難しいかもしれない。私の場合は寝込むことはあっても、自分の状況のシェアと個人セラピーによって乗り越えることができたが、とあるクリニックに通院していた頃、投薬治療を受けながら仕事をし、日々をしっかりと生きていた方を何人も見ている。大方は女性で、男性と比べて精神的な柔軟度が高いなと感心したものだ。
薬への依存は症状を消しても根本的な解決にはならないが、自分と向き合うために利用することは必要だと思う。私は医者ではないので偉そうなことは言えないが、投薬については医療機関で相談することをお勧めしたい。
さて、個々人が背負った時間の集積は他者と比較して優劣や困苦の大きさを争うものではない。それぞれが自分という人間の成り立ちとこれからの標のためのベースデータとして活用していけばそれでいい。ベースデータという言葉が機械的で気に入らないようなら、あなたを支える無数のあなたの分身参謀とでも考えればよい。いずれにせよ、自分よりずっと哀しく苦しい過去を生きてきた人が幸せに生きているのを見て、己の力不足?を嘆く必要はない。しかし、そのプロセスを真摯に見つめてこれからの自分の参考とすることは可能だ。その人が困苦の最中にあったときの心持ち、自分や世界の見方、何をどう選択しどう振舞って生きてきたか。目標をどのようにおき、それを達成する過程でどう考え、どの程度曖昧さを含ませてきたか、などなどなど。
ブログで何度か原風景について言及した。懐かしさを伴う心象風景を取り戻すこと、自分自身であったいくつもの断片を感じ直すことの意義と効用が心の土壌を改善することを拙文で語りかけてきたつもりだ。
一方で、思い出したくない過去を持つ人は多くいる。私にに会いに来られる方を待たずとも、あるいは直接自分にぶつけられたこと以外を含め、体が自動的に反応してしまうような極度の苦痛となる経験を皮膚感覚に宿されてしまった人が多いからこそ、心の問題が随所で取り上げられているのだと思う。思想や思考の前にまず一個の生物である人間が生命をつなぐメカニズムを考えれば、そういったところに焦点を合わせ、その先の人生を注意深く生きるケアを行うことはとても理にかなっている。一般と呼ばれる社会は基本的にそういったことを前提にシステムを組んでいるわけではない以上、固有の経験をした個々人が自身で対処せざるを得ないのが現実であり、それが世間に蔓延しつつある(ことがわかってきた)からこそ、この手の話が国営放送までを巻き込んでメディアで取り上げられるようにもなっている。
そういった過去に捉われている人を責めることは誰にもできないし、同様の状況にあった経験を持つ私からすればそんなことは断じてしてほしくない。だが、それとは別に先にも述べた生命を維持するための世の中の見方、注意の払い方が明らかに可能性=未来を不幸に見せる方向へ導くものであるならば、そこには何らかの対処が必要である。
原風景の獲得も、哀しい過去との対峙も、現在の自分が現在“までの”自分をしっかりと抱きとめることと並行して行われる必要がある。自分を蹴飛ばしながら今ここに集中させようとすればその場は何とかなるだろうが、それがもたらす悪影響は計り知れない。もし、馬鹿みたいだと感じながらでも実行し続けることがあるとすれば、それは今ここというあらゆる場面で自分をしっかりと肯定し続けることである。それがどのくらい必要かは人によるだろうが、今現在の自分を受け止めることは、今現在“までの”自分を抱きしめ続けることである。もし現実的に必要なら、心身の安全が保たれる場所をしっかりと確保しよう。もしかすると時間限定になるかもしれない。だが、そんな場所が多少なりとも確保できるのなら、その時を使ってしっかりと自分を見つめ直そう。
そうこうするうち、怒りや恐怖や哀しみで彩られていると思っていた自己の集積の中に、違う風景を見出すことができる。最初はかすかなものだ。しかし、体が震え、血の気が引き、日々空回りを続け、絶望感に苛まれて遠ざけていた未来への予感の中に不思議な色を見出すことができるようになる。そうやって、かけがえのない人生というものを少しずつ自分の一部に取り戻していくことができるようになる。
未来がどうなるかは誰にもわからない。ただ、私たちの想いは常に未来を形作っていることは間違いない。そして、その形を決めているのは他でもない自分自身だし、その根っこにあるのは自分をどう受け止めているかということに尽きる。
今ここにある自分にしっかり寄り添い、自分を肯定し続けることとは、これまでに起こった無数の出来事と向き合い、それらを自分の中に適切に位置づけることだ。その時には、自分を追いかけ続け、ともすれば感情が体の感覚ごとのっとたれていた過去もかつての時間に帰っていき、こちらが望まない限り臨場感を伴って襲いに来ることはなくなっている。そして、喜びの時間も残酷で哀しかった時間もともに、自分がこれからを生きるエネルギーとすることができるはずだ。やがて、かつては想像もできなかったような素敵な未来を歩みだすきっかけをつかみ取ることができる。
それが夢物語ではないことを頭の片隅にでも置いておいてくれると嬉しい。
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