眠れない夜に

日々の棚卸

子供の頃、

総じて

寝つきがよくありませんでした。

子供の頃というのは

小学生くらいまでのことですね。

夏の夜の暑さだったり、

(我が家はエアコンがなかったので)

父母の言い争う声だったり、

体が何かの不安に包まれていると、

何だか夜は眠れないことが多かった。

中学、高校と、

野球やサッカー、陸上などの

スポーツに打ち込んだおかげもあってか、

多少軽減はされましたが、

それでもやはり

寝つきの悪さは残りました。

そして、家族の問題が顕在化した

大学の中頃から、

眠るためにお酒の力を借り、

それがまずいと悟った後、

それでも眠れないときには

(そんな日々が続きました)

心療内科で睡眠薬をもらって

強制的に眠っていた時期がありました。

 

眠れるようになったのは、

自分の中の頑なさが緩んだというか、

自分の中のこだわりを受け入れることで、

眠りに落ちることを拒んで

何かを必死に訴えていた自分を

その何かはまだ言葉にできなかったけれど、

一緒に肩を組んで座り込んで

というかへたり込んで、

というのが正直なところですが、

ともかくそうやって、

一緒にいよう、

という感覚が体の中に宿った、

そんな時だったように思います。

この場ではよく

怒りや哀しみや恨みや無力感が

自分をどれだけ痛めつけているかについて

述べているつもりですが、

一方で、

そうやって湧き上がってくる

怒った自分

哀しみに沈んだ自分

恨みに取り込まれた自分、

無力感にさいなまれた自分を

強引に押さえつけて、

お前は間違ってるんだ!

と言ったところで、

何の解決にもならないどころか、

あっちを押さえればこちらから、

のパターンで

とんでもない状況でそれらの自分が

顔を出して

とんでもないことをしでかしてしまい、

しかもそのとんでもない自分なんて

力で押さえつけようとしたところで

コントロールなんてできないから、

結果もまたとんでもないものになってしまう

ことは別段めずらしいことではないから、

結局のところ

自分本来の中から出てきたそれらの自分は

大切な自分の一部が生み出した

譲れない想いを守るもう一人の自分として

一緒にいるしかない、

というか

一緒にいたくなるのですが、

まあそういうことです。

 

そういうわけで、

自分を貶める自分に気づき、

自分を苦しめる自分に気づき、

自分が歩んできた過去を振り返り、

自分が今いる位置をしっかりと認識し、

自分丸ごとを受け入れようという感覚が

自然に体中に巡りだしたころから、

ふわりと眠りにつけるようになりました。

 

それ以来、

眠れない夜が0になった

というわけではありませんが、

そんな夜は激減し、

何よりそんな夜に悩んだり不安になったり

することはなくなりました。

 

それにしても

何でそこまで眠れなかったんだろう。

あらためてそう考えて原因を探ってみると、

当然ですが、

マインドの問題が大きかった。

 

交感神経がどうのとか、

眠る前にスマホみすぎて視神経に

影響を与えるとか、

カフェインの取りすぎとか、

言われることがありますが、

私の場合はそれまでがそれまでだったせいか、

あるいは普段から運動をしているせいか、

体の問題というのはあまり関係なかったようで、

余程肉体的に疲労しすぎていない限り、

眠るときはストンと眠りに落ちます。

 

眠れないときというのは

強烈な未来への不安だったり、

思い出し不安だったり

思い出し怒りだったり、

何となく感じる不安だったり、

時にはそれらが慢性化しているために

無痛感のような状態になりつつ

心の中がそういった感覚で占められ、

その感情を何とかしようと闘っている

状態の時でした。

時間的に言えば、

過ぎたことを思い出すか、

明日か1か月後か1年後か

遠い未来かはわかりませんが

やがて訪れる未来が、

眠れない原因というわけです。

 

困りました。

過ぎたことはどうしようもないし、

まだ訪れてないことは

今どうにかなるものではない。

やるべきことをやっておく

必要はあるでしょうが、

まだ見えないもの、

わからないものというのは、

生きている限り存在するわけだし、

そこに思い悩むというのは

自分には変えられないものに

対処しようとしていることです。

 

ある日、

眠れないということは

ある一人の自分が

反乱を起こしていることかもしれない、

自分に何かを伝えたいのだ、

そう感じました。

これも考えたのではなく、

言葉にしたら、ということです。

気づきは、小さな感動のことでもあり、

思考で導き出すというより、

体で感じ取ったり、

皮膚感覚で察知したり、

そんな場合が多いように思います。

 

そうやって感じたことは、

いまさら振り返るまでもなく、

当時から、

ずいぶん魂に無茶をさせた人生でした。

その一方で、

ある種の自分を甘やかせ続けた

人生でもありました。

矛盾するようですが、

それらが相反する自分が、

同時に存在していました。

というか、

たいていはこの二極が存在しています。

無茶に苦しんだ方を癒すなら、

甘えてしまった方は

その力が出てきたところで

律しなおす必要があります。

 

ともかく、だとするなら、

ここに表れた自分の症状は、

今の私に向けて何かを伝えたい、

あるいは認めてほしい、

そう感じるようになったということです。

いつも述べていることですので、

詳細は差し控えますが、

父や母のこと、

家族のこと、

見失った自分や失った友人のこと、

恋人のこと、

仕事のこと、

お金のこと、

孤独感に苛まれたこと、

そういった、

後からあとから湧き上がってくる

混乱とも尽きない何かが、

これまで自分が許していなかった

もう一人の自分が

死んでいないこと、

今も生きていることを

必死になって訴えてきているのだ、

そう感じとったのです。

それからしばらく、

泣けて泣けて仕方がありませんでした。

お恥ずかしい話ですが、

人前でもうるうるしてしまうことがあって、

誤魔化すのにずいぶん苦労したほどです。

 

もっとも、これら一連の経過は

ある日突然ポンと出てきて

次の日から即そうなった、

というものではありません。

ある頃から何か月かかけて、

ゆっくりと自分が変化し、

その変化を感じ取る中で気づき、

それがまた次の変化をもたらす、

そんな繰り返しの中で起こったことを

文章にすると、

こんな感じということです。

 

いずれにしても、

それから、

眠れない夜があっても、

おかしなことに、

安らぎの場になりました。

普段会わない自分と再会する場です。

めったに会えない自分と再会する場です。

まれにですが、

初めて知る自分と出会う場です。

 

なので、時には、

奥底で心が躍るようなウキウキ感とともに

時を過ごすこともあります。

そう考えてくると、

夜も、闇も、孤独も、絶望も、大切な自分。

 

不思議ですね。

わかっていただけるでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『月曜の夜の国道』 コンビニ行きがてらにパチリ。