入れたものしか出てこない

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何度か引用させていただいた標題の言葉。

 

『入れたものしか出てこない』

 

元の文は『入れたものしか出せない』

 

アパホテルのアメニティグッズが入った

袋に記載されている格言?文の中の

一つです。

 

ええ、念のため。

私はアパホテルの回し者ではありません。

 

どこにでもあって、

お手頃価格で気軽に使用できるホテルで、

一時期よく利用させていただいたのですが、

 

その時から

へえ、と思って、見ていたものです。

 

 

時々、心の血肉、という言葉を使います。

 

口から入れた物が私たちの体を作るように、

人や環境を通して、考え、感じたことが、

私たちの心を作る、ということ。

 

つまり、心にまで取り入れた、

 

言葉や声や風景や表情や手触りや匂いや

暑さや寒さや雰囲気や…

といったことの解釈=受け止めが、

 

私たちの世界観、思い込みを作っている、

ということですね。

 

もちろん、特に若い頃などは、

経験の程度や環境によって、

 

取り込むことが自分以外の流れによって

決められがちになります。

 

一時期はやった“毒親”も、

アダルトチルドレンとならざるを得なかった

経緯もまた、

 

そんな環境一つなのだと思います。

 

ただ、それも含めて、

人生においてそれぞれ特有のことを

取り入れてきたというのは事実。

 

そして、その取り入れたことを血肉にして

心の世界を形作り、

別の何かに対しての反応を作り上げている。

 

反応とは、自分が出すもの、

 

例えば表情、例えば振る舞い、

声、言葉、行動、

あるいは自分が醸し出す雰囲気…。

 

そして、その結果に応えるように、

今自分自身がいる(感じる)世界が

目の前にあらわれている…。

 

 

何を取り入れたか、

振り返ってみたことはあるでしょうか。

 

一つ一つ個別のことでもいいし、

全体としての傾向でも結構です。

 

一つ一つなら、漠然とした話より

具体的なことの方がいいでしょう。

 

例えば、

 

上司や友人が怒りの表情になった時、

あなたはどう受け止め、どう対応し、

結果としてその後どう感じ続けていますか、

 

という問いかけより、

 

実際に起こった出来事について、

自分の情動をもう一つ上の視点から

見てみてください。

 

今自分が日常で囚われていることで、

しかも可能なら思い出したくないけれど、

 

一人でいても、親しい誰かと一緒にいても、

つい脳裏を過って、感情を揺さぶるような、

不快さや不安を想起させること。

 

特定の人物だったり、

特定の場所だったり、

特定の催しだったり、

 

といったことであれば、

 

まずはそれらの事例に絞って、

その時のあなたがなぜ、

 

そんな心の動きを取り込んだのか、

そんな解釈をしたのか、

そんな感情が湧いて出たのか、

 

について、是非、つまり、

相手がいかにおかしいか、はさておいて、

 

自分が取り入れた理由と、

それが何に端を発しているかについて、

遡ってみてください。

 

その時に、

そんなのは世間の常識だから、で、

済ませないこと。

 

大方のことは世間の常識などではなく、

あなたの人生の中で編み上げられてきた

特有の理屈に基づいているものです。

 

家庭環境にいきつくことは多いのですが、

 

学校での出来事だったり、

地域の活動だったり、

 

時には日本国の歴史だったり、

に行きつくことだってあるかもしれません。

 

自分が特定のパターンで

悪感情を湧き起こすことが見えてきたら、

 

まずは別の場所と別の人で同じことが

起こった時のことを想定し、

本当にその解釈しかないのかを考えてみる、

 

多様な解釈がありえることに気づいたら、

その理屈を作り上げた大元となる記憶を

探してみてはいかがでしょう。

 

辛い、苦しい、不安、腹が立つ、嫌気がする、

とわかるのは悪いことではありませんが、

 

あなたがそこに

留まるにせよ、変わるにせよ、

 

そう解釈している理由は

知っておきたいものです。

 

その上で、自分の心に取り入れることに

おかしな部分があるとわかったなら、

 

入れるものを少しずつ変えることを

意識していきましょう。

 

心に取り入れるものは、

何を五感で受け取ったか、よりも、

 

それをどう解釈して、

情動=体の反応に結び付けたか、

で決まってきます。

 

そうやって取り入れることが

無意識に蓄積されていくと、

 

判断や受け止め方、反応が変わり、

それが進むことで、

過去や現在や未来の解釈が変わります。

 

それと並行してですが、

言動も変わり、

人生の変化を感じられるようにもなります。

 

決して直線的な変化ではありませんが、

地道に続けていくことが何よりの近道です。

 

ここまでの話は認知行動療法的な要素が

多分に含まれている、

と感じられた方もいるかもしれません。

 

確かにその通りです。

 

ただ、私自身の経験から思うのは、

 

あなたの大切な感情が希薄化されて

感じられがちな、

専門用語の抽象化した世界は、

 

語る側にとっての生きた言葉で

伝えようとすることで、

免れ得るのではないかと考えています。

 

ともかくも、

私は私の言葉で語っていきたい。

 

 

20年の歳月、

母と疎遠にしていた頃のことでした。

 

とある理由で母の暮らす場所から

そう遠くないホテルに泊まることが続いて、

 

本日の標題

『入れたものしか出てこない』を

見た時のことです。

 

多分に、医療機関やカウンセリングで

心のことを学んでいたことも

あったのでしょうが、

 

この言葉を目にしてすぐ感じたのは、

自分がなぜこうやってホテルに

とまる羽目になっているのか、

 

ということでした。

 

確かに、お金はあるし、

嫌な思いもしなくて済む方策では

あるかもしれません。

 

でも、自分の人生を振り返って、

この行動を“今後も続ける”とするなら

どうにも自分にとって不自然に感じたのですね。

 

それまではただ、

 

これ以上親に振り回されたくない、

違う人生を歩んでいきたい、

 

と感じて取っていた行動ですが、

 

それと心の底では母親を怖がっていて、

会って世界が崩されることを避けようと

していることとは別だ、

 

というところに考えが至りました。

 

どんな親でも親は親で、

 

肉体的な暴力をふるうならともかくも、

老いて多少乱暴なことを言うくらい、

スルーすればいい、

 

少なくとも、

自分はその程度には恢復していたし、

 

かつて良くも悪くも自分という存在の

基盤部分を占めていた親という存在を、

 

もう一度自分の人生の一部に適切に

位置付けるために、

自分に対するある種のわだかまりを

解いておきたい、

 

そのためにはもう一度会って、

話しをした方がいい、

 

ということが、言葉ではなく直感的に

脳裏を駆け巡りました。

 

自分が自分の世界を

きちんと持てるようになったなら、

 

肉親にせよ、上司にせよ、友人にせよ、

 

相手が何を言おうとも、

それで今の生活が崩れるわけではない、

と思えるようになったのです。

 

それからしばらくして、

20年ぶりの再会になった話は

既に書いたような書いてなかったような。

 

言葉一つで世界は変わるものです。

 

ー今回の表紙画像ー

『5月の川』

稚鮎を求めて、前回と同じ場所へ。

8匹しか取れなかったけど…、

天ぷらにしてみた(右端の方です)。大人の苦みがうまかった。。。