過去の記憶のもう一つ向こう側にあるものを意識しよう

日々の棚卸

 

過ぎた時間は元に戻らない。

過去は変えられない。

過去に起こった/起こしてしまった

出来事に捉われて、

日々を納得して

生きられていない人がいます。

苦しいですよね。

私もそんな一人でした。

 

過去に起こったことと、

過去に起こしてしまったことは

異なっていて、

起こったことはどちらかと言えば

自分は受動的、

起こしてしまったことは

自分が能動的にかかわっています。

だいたいにおいて、

最初は受動的な出来事があって、

それが内在化されて

能動的に行動していく、

という変遷をたどります。

受動的なことと言えば、

例えば、

親・兄弟の起こしたことが、

自分に降ってきたことだったりします。

交通事故や

同僚のミスによるとばっちりも

ありますね。

それと反対に、

能動的なこととしては、

人に言ったこと、

人にやってしまったことですね。

ひどい言葉を投げつけた、

つながりを切ってしまった、

会社で切れてしまった、

お金を浪費してしまった、

借金して遊んでしまった、

人を裏切ってしまった、

陰険だった、

引きこもってしまった…。

 

当ブログでは特に、

親や家族との関係に悩む人が、

どうやって自分を受け入れ、

かけがえのない日々を

生きられるようになるかを、

様々な角度からお伝えしています(つもりです)。

自分自身の受け止め方だったり、

家族の在り方だったり、

働き方の選択だったり、

動けない時の処方だったり。

 

そういったことの際たる一つが、

過去との付き合い方です。

 

これまでにも何度か触れてきましたが、

何度繰り返しても

繰り返しすぎることはないほど大切で、

腑に落とし込んでいただくことで、

自分を変えていくこと、

人生を良い方向に変えていくことが

できるようになると自負しているので、

あらためて書きます。

 

過去は変えられないけれど、

過去の解釈は変えられる。

これはある程度

落ち着いた人の発言であって、

混乱の極みにある人、

ことに強烈なショックに

見舞われている人に向けて

そう言われたところで、

反感はおろか、

怒りを向けられることになりかねません。

この言葉を聞いて、

苦しんでいる人が感じることは、

「解釈変えられるなら

過去は何が起こってもいいってことに

なってしまうだろ、

これ(自分の身に起こった不幸)も

起こってよかったことなのか」

となってしまうからです。

(私はそう感じて反感を持っていた時期が

ありました…)

 

だから、最初に苦しんでいる自分を

受け入れるステップが

どうしても必要になる。

残念な自分、

みじめな自分、

嫌いな自分、

醜い自分、

格好悪い自分、

ともかくそういった、

見たくなかったり、

遠ざけておきたい自分と向き合い、

大切な自分の一部として

一緒に生きていくと決めます。

そうやって自分の受け入れが

ある程度進んでいくと、

必然的に理屈のみならず

感覚的にわかってくることがあります。

それが先にも述べたように、

よほどのことでない限り

(余程のこととは

今悩んでいることよりも

ずっとひどいことの場合が多い)、

過去は解釈によって変わる、

ということです。

 

解釈と言う言葉はなんだか、

理屈的で嫌ですね。

少なくとも私は、とても嫌だった。

「こっちは理屈の話をしているんじゃない。

感覚、感情の話をしているんだ、

“事実”の話をしているんだ」

と激情に駆られていますからね。

 

ですが、この“解釈”ということ、

これは自分を受け入れる前と後で

大きく変わるのです。

何が変わるかというと、

私たちが記憶する過去の

さらにもう一つ奥にある背景、

あるいはそこに絡む人間模様への洞察とでも

言えばいいでしょうか。

私たちは、

7歳の時と

27歳の時と

47歳の時で、

ある人の同じ言動に対して、

異なる解釈をすることがありますよね。

例えば、会話の中の言葉の解釈。

子供の時はそのまま受け止めていた言葉が

歳を経るにしたがって、

異なる意味を含んでいたり、

実は別のことを言いたいがための

言い回しだったりすることを

知るようになります。

それは、自分がいくつもの経験をする中で、

全く同じではないにしても、

同じようなことをしていたり、

あるいは洞察や気づきを得たり、

自分や他者の限界を受け入れる度量を

持つようになって、わかることです。

わかるというより、感じなおす、

といった方がいいかもしれません。

体の感覚自体が変わりますから。

 

自分を受け入れるとは、

本来、

親や家庭内で与えられるはずだったことを

自分自身が大人として体得していくことで、

当然、

自分の家庭とは異なる家で育った人より

時間はかかるかもしれませんが、

必ずできることです。

自分を受け入れ、

大人の自分が育ってくると、

過去の悲惨な出来事の別の側面、

相手の立場や、

本当に伝えたかったことの可能性、

自分の甘えによる解釈もあったこと、

などが見えてきてしまうのです。

例え血を分けた子供に対してであっても

親もまた欠点も愚かさも虚勢も欲望もある

一人の男であり女であったのだ、

という、

かつては仮にわかっていたとしても

頭の中だけの“解釈”であったものを

受け入れざるを得なくなるのです。

 

そうなった時、

今ここ、などで言われるように

過去はすでに過ぎ去ったものとなり、

現在に介入して

生きづらさを増長させている感情は

昔の時間の中に、

適切な大きさで

新たに記憶されて仕舞われるのです。

それが嫌な人がいつまでも、

自分は悲惨だった、

何としても“奴ら”から

愛情を取り返してやるぞ、

と息巻いていたりします。

それが自分を憎み、自分を傷つけ、

間違いなく叶えられない望みを

他責のまま待ち続けていることに

気づかない限り、

ゆっくりと自分を蝕みながら、

時間が過ぎていきます。

時にはそんなことに気づかないまま

その感情を伴侶や親子供相手に別の形で

ぶつけていたりする人もいるので

困りますけどね。

 

いささか余談的になりますが、

見えないだけで、

このような過去の記憶は、

自分だけではなく、

全員とは言わないまでも、

多くの人がそれなりに

おどろおどろしい過去として

背負っていることはよくある話です。

 

私たちの過去がどうであれ、

背負うことができるのは自分の過去だけです。

与えられたものはあなた独自の

人生の彩となります。

だから、

記憶に苛まれ、傷つき、怒りを覚えて

しばらく哀しんだら、

そんな“解釈”があることを

思い出してくれると嬉しいです。

 

私たちは、自分が望み、

適切な方法をとることで、

いくらかの時間を費やせば、

必ず変わることができます。

自分がどう変わりたいのか、

それを世間の言葉ではなく、

自分の言葉で語ることを試みるうち、

変化の兆しを感じるようになりますよ。

 

自分の受け入れ、

他者の受け入れ、

新しい生き方(働き方)

です。

 

ー今回の表紙画像ー

『本日の夕景 ~ 町はずれの川べりより』