親を頭で理解することだけなら、
怒り狂い、荒れ狂い、
返す刀で自分を罵倒する人にとっても
何とかなるものです。
口では罵っていたとしても
そういった人と話をすると
親の境遇について、
だいたいは理解しておられる。
自分に対する仕打ちに対しても
こういうことだったんだ、
と理屈としては理解していたりします。
でも、
受け入れの順序を間違えているがゆえに、
心身に素直に体現されておらず、
人生を生きづらくしている、
そういうようなことを、
以前、下記↓に書きました。
https://nakatanihidetaka.com/reversed_order/
私たちは、
親が完璧でないことを頭で理解しながら、
なかなか受け入れらません。
これは私やあなただけではなく、
多くの人に起こっていることで、
決して、
特定の時代の現象ではありません。
特に、バブルがはじけた後、
顕著になったように思いますが、
実際には、
第二次大戦の敗戦後、
もう少しいうなら明治維新以降、
個人という概念が社会に浸透するとともに、
少しずつ顕在化してきた現象で、
国民国家としての宿痾的な部分が
あるのかもしれません。
そんな社会現象と関連する部分もあってか、
セーフティネットの整備が
時代を経る中で徐々に進んでいます。
私たちは、
セーフティネットのある社会に暮らし、
どうしても必要な時には
頼りにできる仕組みとなるように
構築を試みてきました。
もっとも、
それがない江戸時代の頃から、
共同体で助け合いが行われていましたし、
それは他の多くの国々でも
行われていたことだと思います。
家族の中で
子供にとってのセーフティネットは
養父母を含む親です。
誰が望んだかという話はさておき、
この世に生まれた私たちは、
食事を与えられ、
寝床を与えられ、
温もりを与えられ、
という生物として生きていくための
最低限の環境を与えられてきた
という意味では、
セーフティネットは
親でしかありえません。
虐待を受けたと主張する方などは
それは違うと言われるかもしれません。
実際、一部の方の経験は、
ほとんどいじめか制裁行為のような
暴力が日常的に振るわれ、
筆舌に尽くしがたいものであることを
聞いたこともあります。
哀しいですよね。
悔しいですよね。
切ないですよね。
そういう親をして、
セーフティネットと呼ぶのは
にわかには受け入れがたいかもしれません。
先日も書いたように、
恢復には順序がありますので、
そう感じられる方はまず、
ご自身に寄り添うことをしっかりと
行ってください。
ただ、
やっぱり前述のとおり、
私たちは生まれてから、
不完全ながらも、
親の庇護を受けて生きてきた、
そう言わせていただきます。
不完全のレベルは人にもよりますが、
0%と100%はまずないでしょう。
そして、人によっては
50%だって達成していない
と感じているかもしれない。
庇護と言ったって、
ほんとに数える程度だったんだ、と
まるでおギャーと生まれた直後から
しっかり意識と記憶があるかのように
おっしゃる方までおられる。
その多大なる不足が
自分の人生に跳ね返ってきて、
世の中を生きづらくしているのだ、
という受け止め方をしている限り、
そこには、
親をどう批判しようと、
親に対する恨みと甘えの気持ちばかりが
湧き上がってきてしまいます。
よく言われるように、
怒りも恨みも愛情の裏返しというのは
その通りで、
それこそが、
いつまでも親から
不足していた何かを与えてもらいたい、
という感情です。
そんなもんとっくになくなったよという方、
もし世の中に対して、
ニヒリスティックに接しているなら、
それも裏を返せば
そういうことだったりしませんか。
いつも言うように、
自分を受け入れること。
自分自身として
自分を受け入れ続けること。
親がどうだから、ではなく、
ひたすら自分を受け入れ続け、
自分が自分にとっての
最も親しい仲間になること。
その先に表れることの一つに、
あまりにも
不完全で
不実で
不器用で
無様で
不作法で
不細工で
小心者で
せせこましくて
尊大で
無礼で
取り柄さえないかもしれない
そんな親によって、
あまりにも
不完全で
不実で
不器用で
無様で
不作法で
不細工で
小心者で
せせこましくて
尊大で
無礼で
取り柄さえないかもしれない
そんな自分が、
ここまで生きてくることができた、
そんな感謝の情と、その方法とを
他の、
まだ自分で作った殻に締め付けられて
苦しみもがく人々に
何らかの手段で分け与えられないか、
という想いが芽生えると思います。
そのときには、
親は
この今の私たちのような状態のまま、
私たちが仕入れることができた知識や
つながりを得る術もないまま、
私たちを捨てることなく
育んでくれたのだという感情と
客観的な心情の主体化を
体感するようになります。
きっと、
あの人たちなりに精一杯・・・。
あんなことやりやがって・・・。
どっちの感情もあり続けるとは思います。
それ以上でもそれ以下でもなく、
人とはそういうもので、
でも、その上で、
よくある男と女の間に生まれ育った
自分がいる、
ということに
圧倒的な感謝が湧いてくるのです。
これを書いているのは、
そうやって、
自分の中に存在する自分と接し
そんな自分を受け入れを続け、
自分を育ててくれた親と
育んでくれた社会と人とに
想いを馳せるようになった、
不完全で
不実で
不器用で
無様で
不作法で
不細工で
小心者で
せせこましくて
尊大で
無礼で
取り柄さえないかもしれない
そんな一介の男です。
ー今回の表紙画像ー
『雨雲に覆われた遊水地』
雷が鳴っている。。。
コロナでCO2排出が削減されたのか、今年の梅雨は天気がとてもノーマルに感じます。湿度は高いけど、凄まじい高温ではなくて、雷鳴が梅雨の終わりと真夏の訪れを告げているような…。久しくなかった気がします。
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