職場、家庭、近隣の人々との付き合い。日常生活の中に身の置き場がない、安心を感じられない人はいったいどのくらいいるでしょうか。心が休まらず、いつもどこかでギスギス、カリカリして怒りを抱えていたり、誰彼となく当たり散らしているか、どうしようもなく暗く落ち込むかして、ますますつながりを失ってしまう。家計のやりくりをしながら子育てに奮闘しているお母さん、一家の大黒柱として昨今さらに厳しい競争にさらされながら歯を食いしばって働き続けるサラリーマンのお父さん、何とか一人前に生きていこうと勘違いして生写真を目指している方、そして周囲になじむことができず本音とのギャップに七転八倒しているあなた・・・。
失ってしまう最も大きな喪失は、そう、自分自身とのつながり。
これが進むほどに生きづらさは募るばかり。 なぜなら、人は自然の一部であることを忘れてしまっているから。決して人工物なんかじゃない。「ねばならない」という人工的な”決めごと”を実践する以前に、ご飯をおいしく食べる、健やかに眠る、心穏やかに暮らす、気の合う仲間と楽しい時を過ごす、森の静けさに包まれる、好きな人と温もりを感じ合う・・・、そういったことを必要とします。“つながり”を感じることもまた、そういった根源的な要素の一つなのです。
先に触れた通り、私たちは普段、人の中で“決めごと”に沿って生きています。この“決めごと”は法律のような明文化されたものではなく、あるいは不文律のようなものでもなく、こうあるべきと設定した習慣とかルーチンワークとかちょっとした心がけのような、個々人がそれぞれの経験に基づいて必要、ないしはより良く生きようとして作り上げてきたものです。大なり小なり、誰もが思い当たるところがあるでしょう。『無理なく』実行することができれば、充実した日々を送るちょっとしたコツになるかもしれません。しかし、よりよく生きようとして、本来ある心や身体のバイオリズム、もっと言えば根源的な欲求から大きくかけ離れた“決めごと”が続くうち、手段の目的化が起こって、後はご存知の通り。
こういった“決めごと”をきっちりとこなした上で、自分は満足するほどにしっかりと自分や世の中とのつながりを感じられているでしょうか?
それよりも、このような問いかけは無意味に感じますか?
私たちは、とかく様々な”決めごと”を、それが必要で大切で先々のためになる、という感覚のもとに日々の計画に埋め込みます。一歩退いて振り返れば、本当に必要なことと言い切れるのかはわからなくないはずですが、”決めごと”なので、それを実践しないことには何事も納まるところへ納まらない、と考えてしまっているのでしょう。そして、予想外の状況 - 仕事が計画通りに進まない、突然言われた批判の言葉にいつまでも苛々が止まらない、ふさぎがちになる、人の良くない行為がやけに目に付く - になると、渦巻きだす自分や他者への批判の感情。・・・何をどう「考えて」も納得いかない。納得がいかないと、納得がいく“正しい”論理を構築し、さらに批判の情が高まり、手に負えなくなる。そうこうしているうちに、1日が過ぎ、1週間が過ぎ、1年が過ぎ、10年が過ぎ・・・。
いつしか自分の居場所は、自分が感じる幸福の中にではなく、いかに自分が恵まれず不遇であるかの正当性を訴え、その不遇を実現する世界になっています。そんな世界こそ自分の本来の居場所だと感じるのであればそれでもいいのですが、おそらくそんな奇特な方はいないはずです。
「確かに望んではいないけど、そうは言っても・・・」
その通り!
「そうは言っても」という言葉によって、その世界を“選択”していますよね。
そんな馬鹿なって?
やっぱり納得できないって?
では、一度だけ、振り返ってみてください。
その『予想外の状況』、実はあなたの”決めごと”があなた本来の欲求を無視し続けて続いた末に、頑なな「べき論」が巡り巡って招いていたりしませんか?
人は・・・少なくとも人の心や身体は自然だ、と最初に書きました。自然は構成する様々な要素がどこかで“つながり”連携しているものです。人工的に作られたものではない、と。
あなたの醸し出す“正しさ”、“窮屈さ”、“正当性の主張”、そういった空気とそれを醸成する立ち居振る舞い、ひいてはモノの見方=生き方が、どこかであなた自身の自然体に対して歪みをもたらし、それがあるところまでいってしまったとき - たいていは当人自身にもかなりの負荷がかかっているはずですが、気づいていないか気づいても“正しい”ことと受け止めてしまっているでしょう - 生じている状況ではないか、と思うのです。
自然には、その系を保とうとする自浄作用があります。自然が生きている限りにおいて、ある部分が相当程度におかしくなりかければ、カウンターメソッドとして修復の力が働きます。日常の何かがおかしいとすれば、あなたの生活の中で何かが狂っているとすれば、それと同じことが起こっているという見方はできないでしょうか。
20世紀の終わりごろから一般の人々の中で市民権を獲得しだした精神医療や心療内科などで対象とされる様々な心の病、あるいは外科や内科などで治療が必要となる体の致命的な病、今あなたが置かれた状況、居場所になりつつあるその状況は、そういった心や身体の状態に自分を追い込まれないために生じた福音と受け止められないでしょうか。
何か大切なこと、気づいて対処する必要があることを教えてくれるメッセージだと。風邪をひいたり、筋肉を傷めたりすると体の調子が悪くなります。どこか異常をきたしているよ、というメッセージですよね。心の状態の場合には、往々にして人の関係の中にあらわれてくるものです。
自分とのつながりを失うことは、自然の一部である身体にダメージを与えることで、これが進むからこそ、生きづらさを感じるようになる。これを否認していると間違いなく、自分か他者を傷つけながら日々を過ごしてしまうものです。
私たちは幸せな未来を望み、思い描き、その幸せを少しずつでも実現したい。これもまた皆に共通の願いだと思います。その願いを現実のものとするためには、人それぞれこなすことがあると思いますが、一つだけ確かに言えることがあります。
それは、幸せな未来は現在の居場所、そしてその居場所を片付くっている私たちの生き方と密接につながっている、ということです。今の生き方の連続が未来につながるのだから、当然と言えば当然でしょう。
そして、幸せな未来を実現するためには、100%自分を受け入れること、どんな過去や今も認めること、そのフェーズが必ず必要なのです。そのために最も必要なこと、それが自然体としての自分とつながることなのです。これを、「正当化」としてしまうと180度方向が変わってしまう。先に挙げた居場所の話はそれが伝えたかったのですが。
このHPをご訪問いただいた一人一人が、少なからず自分が望む人生を歩み、幸せな未来をつかむための一助となれば嬉しいです。
居場所を変え、生き方を変えようとして、自然の自分に忠実であろうとすると、きっといろいろ失敗したり、格好悪いことをしてしまったり、時には失礼なこともしてしまうかもしれません。時には、周囲からの圧力を感じることだってあるでしょう。それでも、消えてしまいたいと自ら死を選択したりせず、人生をあきらめることなく、いつかは訪れる“お迎え”のその時まで、かけがえのない自分と寄り添ってできる限りのことをして生きていきましょう。
大丈夫。
世の中よくできたもので、そうやって生きていくと自分に合った居場所と望む未来が見えてきますよ。
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