逆説的な生き方

日々の棚卸

前回、『そこ』にいることについて書きました。

『そこ』にいることが苦しくてどうしようもないと、どうにかしたくなる。

そして、どうにかしようといじってはいけないところをいじりまわすと、ますます苦しくなる。二度と不幸に襲われないようにしようとするその生き方が、ますますあなたを不幸にし、他者を被害者に仕立て上げる。もし、本当にそうだとしたら哀しいことですよね。

今回は、私たちのものの見方の逆説性に関する話です。

『逆説的な』と書くと何のこっちゃと思われるかもしれませんが、こう考えることで努力や頑張りが意に沿わない方向に発展していってしまい、願っていたのと180度異なる結果にもたらす構造が理解しやすくなります。

 

嫌だ、怖い、腹が立つ、もう二度とあんなことに巻き込まれないようにしよう、と経験から学習して自分を守ることがとても大切であるのは言うまでもありません。危険を察知し、回避して個体、そして大切な存在の安全、安定をはかることは誰もが求めるものです。

 

(1)安全・安心

(2)安定

(3)多くの人のために

 

私たちが生きる上で必要な家族とか学校や会社、共同体のような組織、集団もまたそうやって生まれてきました。もっともそのスタート時期は全く違いますが。家族は、弱く、しかし大切な子供のため、会社は決して大きくない一人一人の力を集結して安定・安全を図るため、その集団の究極は今のところ国ということになるのでしょうか。

いずれにしても、これら人の集合体は現在に至るまで少しずつ洗練されてきているはず。「はず」と書いたのは、お察しの通り、本当に有効に機能しているのだろうか、と疑わざるを得ない状況があちこちで起こっていることに、多くの人々が疑問を感じているからです。

 

ところで、本来、家族や組織など、およそ人が作る集団が上の(1)から(3)を満たすためのものなら、適した形とはどのようなものなのでしょう。

フランスの歴史学者であるエマニュエルトッドさんは、家族の中でも核家族は最も古い形式で大家族こそが最新であると述べています。少人数よりも多数の世代が家族を作る大人数こそがもっとも新しいと言っているのですね。

日本の文化財保護の会社社長で金融アナリストでもあるデービッドアトキンソンさんは、日本経済の復活のためには生産性の向上が条件であり、そのカギは中小企業の大企業化である、と結論付けています。短時間で高収益を実現するには、より多くの人で構成された大企業こそがよい、というわけです。

 

大人数、大所帯こそが、本来の意味での発展形である・・・。

一つの指標ではあるのでしょう。

確かに大は小を兼ねる、とは言いますね。

では、私たちが日々生きる上で指標としているものは何でしょう。

 

先に、経験から学習して自分の安全をはかる、と述べました。私たちは、自分の身に生じた危険とそれを回避した経験から、自身の安全を確保するよう行動する、と。

赤信号を無視して自動車にひかれそうになったら注意するようになるでしょう。蜂やアブを触って刺された子供は次から触る昆虫には気を付けるようになるでしょう。

これらはごく初歩的なことですが、私たちは人生の随所でこの学びを繰り返して独自の世界観という『地図』を編成し続けます。生まれ育った家族の中でラフな全体像を描き、学校や友達、会社や仕事、近隣の関係といった中で個々のラフ画に合わせて詳細に構成をうつし、人とはどんな生き物で、社会とはどう作られていて、早々に諦めるものは何で、自分はどんな男あるいは女で、どんな生き方が大切で(あるいはわからなくて)といった、当人にとっての“客観”的な“主観”の『地図』を編み上げているわけです。

“客観”的な“主観”と書いた通り、私たちが言動の基準として使用しているこの『地図』は、多分に私たちの生い立ちや経験に則っています。最良でもなければ受けがいいとも限らず、しかし最も身近な価値基準として良くも悪くも日々の生活を無意識レベルまで規定しているものです。

十人十色とはよく言ったもので、ある出来事に対して、ある人にとっては何でもないことが、別の人にとってはとんでもないことに感じられたりします。人のちょっと投げつけられた言葉を、さっとスルーする人もいれば、怒り心頭に発する人、いつまでもずるずると引きずる人などがいますよね。

この違いが『地図』によるわけですが、先に挙げた集団、つまり『地図』を編み上げる土台となる家族の中で吸収したラフ画は、その後の世の中の見方、接し方に大きな影響を及ぼします。家族の中で起こる虐待や不幸については巷で語られていることも多いのでここでは触れませんが、いずれにしても私たちはともすればどんな全体像や詳細な画を持ったにしても、そこに描かれた『地図』を大きく変えてしまおうとしない、もっと言うなら頑なに守ろうとするものです。いつかも申し上げましたが、例えどれほど、今の自分が重苦しくつらくても、この『地図』の完成に向けて強化する方向に動き、行動を続ける生き物が私たちのようなのです。

そして、人によっては『地図』のラフ画=全体像を描き続けてきた結果、行き詰ってしまいます。これ以上働けない、笑えない、恋もできないし人と交わることもできない、そんな気力も想いも湧いてこない、感情すら感じられない、いい歳して真っ暗な闇の中にいるようで、もっと暗くおぞましい未来に向けて歩いていくように思えて仕方がない。

そんな自分になるまでに、随分頑張ってきたのでしょう。頑張って、気合を入れて、自分の尻を蹴飛ばして、自分に罵詈雑言の発破をかけて、自分をモノのように扱って、何とか一つの壁を乗り越える。するといつしか、結果自体が良くても良くなくても、自分自身の肯定感は極限まで低下している、否、ほとんど消失している。そりゃそうですよね。モノとして扱い続けてたんだから。この繰り返しでもはや生きづらさの塊になってしまっているのでしょう。

すると次に、救いを外部に求めるようになって、ネームバリューを求めるか、お金もうけに走るか、男(女)にすがりつくか、捻くれて斜に構えて嘯いて生きるか。

 

何に対して頑張ったんでしょうね。

誰とどんな理由で競争したんでしょうね。

自分を陥れる敵って何でしょうね。

自分ってそこまでひどいんでしょうかね。

 

そして、なぜそんな生き方になってしまったんでしょうね。

・・・日々、心が参照している『地図』がそう指示していて、その結果、あなたの体と心を蝕んでいる現実があるのなら、少なくともそのルートを修正する時が来ているのではないでしょうか。

頑張ることが悪いのではないと思うのです。

その理由、やり方、ものの見方が、感情のダメージとなって、心の疲労となって、肉体の痛みとなって、あなたの中に蓄積された結果、身動きが取れなくなった今があるのではないかなと思ったりするのです。

 

だとすれば、どうしたらいいのでしょう。

 

先に結論を言うと、問題を解決するために原因を探るのではなく、自分が変わると、問題が問題ではなくなります。ここまで、いくつか逆説性の話をしましたが、私たちが変わることでものの見方・受け止め方が変わると、それまでと世界が変わって見えるようになる、というのは逆説性の中でも最も知っておいてほしいことです。また、これを利用したセラピーや精神医療もあるとききます。

ともかく、

「押しても駄目なら引いてみな」です。

「今畜生」ではなく「自分のペースでやってみよう」です。

「お金や自分の噂」はとりあえず放っておいて「できることをやってみよう」です。

腹を立てるくらいなら、今できることに心を向けよう、です。

反省よりも、自分が自分の肩に手を回すようにイメージして、「ご苦労様」です。

・・・・・・・・・・・・・・。

他にもいろいろありますし、思い浮かぶ方もいるでしょう。

結果はどうなると思います?

きっと変わらないか、むしろ良い方にいくと思いますよ。

なぜか。

そこには、これまでのあなた一人の力意外に、いろいろな力がサポートし、支えてくれるようになるからです。サポートの中には、過去のあなたやもう一人、さらにもう一人のあなた、あるいは目に見える周囲のサポートもあるし、気が付かないところで助けてもらったりもされるようになります。あなた自身、疲労も悪い感じも、今よりずっと少なくなると思います。人といるとかいないとか、取り巻きが大勢いるかどうか、なども当然気にならないでしょう。

 

自分の感情をくみ取って、大切に扱ってください。そして、正当化することなくその想いに従って行動し、結果を受け止めてまた自分の味方になって・・・。気が付くと、今よりきっと生きやすい世界にいる自分を感じるようになりますから。