その昔、
若い頃のディスカッション(=議論)での
お話です。
当時私は、
とある研究所に勤務していて、
その時の上司の説明によれば、
20年先に世の中で
スタンダードとして根付くテーマに
取り組んでしました。
こう書くと、
なんだか凄いことをやっていたように
読めなくもありませんが、
実際に行っていたことは
とても基礎的な領域に関することで、
テーマによっては
ディスカッションの積み重ねだけで
終わってしまうこともありました。
そんな、研究者というには
あまりにもうだつが上がらなかった
当時の私のディスカッションで、
私の発言になると、
何かと突っ込みを入れてくる
輩がいました。
名前は忘れましたが、
ノーベル賞を受賞したIBMの研究成果で
コンビを組んでいた二人の科学者の一人が、
成果を出す秘訣は、
相手の意見を真摯に聞き、丁寧な言葉で
徹底的に叩き潰すことだ、
それが、より真実へ導く、
といったようなコメントをしていたことを
記憶していますが、
もちろん、その輩の言葉や態度には
そのような雰囲気は微塵も感じられません。
ことに、
研究テーマが成果となって
市場に与える影響の話になると、
彼は、毎回いきり立つようにして、
人の感情の動きについて語り出します。
それも、なぜか私の時だけ。
そして、直接私に向けてだけ。
チームで仕事をしていると、
何人かで報告し合いながら
結果を見て次の方針を立てるけれど、
彼が反応するのは、先述のとおり、
具体的なデータの話ではなく、
情動に関することだけでした。
そもそも、他にあまり話ができる相手が
いない人だったけれど、
なぜか私には“率直に”絡んできます。
そう、私の話す内容に対してだけは、
あーだこーだと見解を述べてくるのです。
どう聞いてもそれは、
解析によるコメントではなく、
単なる私見というか私情を
述べているに過ぎないと感じるのです。
それでいて、
中には、ここがおかしい、それは違う、と
厳しい『指摘』も入っていたりします。
その考え方は変だ、
その行動は変だ、
その発想は変だ
人の心とはそんなものじゃない…。
今なら、企業の経営も厳しいことが多く、
もしかすると
時間の浪費だと判断されて、
ファシリテーターから中断されてしまう
かもしれません。
ですが、当時はまだおおらかな時代。
最初は、こちらの話したことが
そんなにおかしいのかな、
気に入らないのかな、
と結構真剣に悩みました。
ですが、
他の人でそういう人はいません。
自分の話を振り返ってみても、
確かに曖昧な部分はあったけれど、
それなりに筋は通っている。
だからこそ、
他の方々もあいまいな部分に対する
見解はあっても、
総体としては理解してもらっている。
彼は、当時の私には知識がなかった
心理の領域でかなり学んでいたそうで、
いろいろと抱えた人生を送っていたようです。
今なら彼が言いたかったことは
研究成果の解析を脇におけば、
それなりに理解できることで、
例えば、市場動向と家族の話が混ざると、
愛着と親との関係を引き合いに出して
主張を展開します。
意見が拮抗したときなど、
別の角度から説明しようとして
「じゃあさ」などと言うと、
「何が「じゃあ」だよ」
と突っかかってくる始末。
何なんですかあなたは、と
不快に感じたりもしましたが、
救いがあるとすれば、
決してこちらを揶揄しているようではなく、
彼なりに真面目に、真剣に、
彼にとっての偽りなさで
ぶつかってくること。
時にそこまで言うか、というほど。
正直、疲れている時や
虫の居所が良くない時は
気分を害することもありました。
ただ、そう言うことが続いて、
だんだんと彼の発言そのものを
拒否したくなるときがあったのも事実です。
鬱陶しい、うざい、面倒くさい、
うるさい、胡散臭い。
しかも、こちらの胸の中には、
かすかな不安というか不快な感覚も
出てきている。
害をなそうとしているわけでは
ないのだろうけれど、
よくよく考えると、何だか怖いな…
といった感覚です。
★
ある時のことです。
ふと、
どこかで自分の中のある感覚と
ダブる感じがしました。
当時の混乱していた自分としては
珍しいことだったのですが、
ちょっとの間、
思考を揺蕩(たゆた)った後、
彼の態度が親のそれとダブったのです。
話す相手もなく、
先行きも見えない生活で、
両親はいつも衝突ばかりの日々。
実際にバラバラになってしまったけれど、
今にして思えば、そのずっと前から
そうなってしまう濃厚な気配はありました。
そんな家族を作り上げた父と母が、
息子の私に対して、
これからの生き方について
よく説いてきて閉口していました。
時には無視し、時には切れて
怒鳴ってしまったこともあります。
あなた方のこの状態で、
自分の人生をしっかりと
生きているようにも見えなくて、
何かにつけて、
意見とも指導とも言えない
言葉を発して、
私がどう感じているか分かっている?
ねえ、
自分たちが今どういう状況にあるのか
分かっているの?
こちらのことを考える前に、
まず自分たちのことをしっかりしないと、
共倒れになってしまうよ?
大丈夫なの?
こっちだって心配なんだよ?
私のことを想って、
彼らなりの精一杯の愛情を
伝えたかったのだろうことは
当時もわかっていたけれど、
それでも脳裏に浮かぶのは
そんな言葉たちでした。
ですがある時、ふと、
もし、それらの言葉なり態度を
他の誰か、
例えば、
もっとしっかりしているように見えて、
もっと安定した感じの人が、
愛情をもって伝えてくれたら、
私はどう受け止めただろう、と
思ったことがありました。
もしかしたら、
もっと素直にそれらの言葉を
受け止めることができたかも。
もっと日常に生かせるような
解釈ができたかも。
そう考えると、
おかしなことだと思うし、
その一方で人は感情の動物なのだと
しみじみ感じたりもします。
理想論を言えばきりがないけれど、
自分に与えられる言葉の受け止めは、
ホントは誰が言ったかじゃない。
それが大人と言うことなのでしょう。
でも、一方で、愛着があるからこそ
その言葉を受け止めたいと思える感覚が
存在するのも事実。
だから、とりあえず、
もう一つ上位で考えてみる。
皆が自分と、
そして大切な人の幸せを切に願って
生きているはず。
そう受け止めて、
何をどう日常とこれからに適用させるか。
自分を幸せにできるのは自分だけ。
そうであるならば、
相手が何を言うか、
誰に対して言うか、
どんな態度で言うか、
そんな折々の“引っかかり”の中から、
それでも自分に必要なことを抜き出して、
しっかりと人生に体現する。
私たちはつい、
他者の言動に振り回されるけど、
本当は自分との関係を築いているのは
他ならぬ自分自身。
そんな感覚が、
人の中で生きていく上で、
幸せのヒントだったりするのかも
しれないという話でした。
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ー今回の表紙画像ー
『梅の花?』1月に咲くんでしたっけ?
空は快晴。気持ちよかった。

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