混乱しながら、
焦りながら、
落ち込みながら、
客観的に物事を見るように心掛け、
自分の調子に言い訳しないようにし、
日々の目標を必死にこなし、
でも、
閉塞感は募り、
安らぎは感じられず、
未来に明るい兆しは見えない、
そんな時間の底流には、
あなたのあなた自身に対する
見方があるのではないでしょうか。
とてもシンプルで、
それだけに理解は容易で、
だからこそ認めたくなくて、
目を背けがちで、
でもどこかで向き合わざるを得ない、
そんなお話です。
★
自分は不遇だ
自分はうまくいかない、
自分は嘘を生きている、
今のあなた自身の見方として、
少なくともどれか一つは
当てはまるのではないでしょうか。
何となくそう感じてしまって仕方がない、
理由はよくわからないんだ、
という方もいるでしょう。
あるいは、具体的な根拠をもとに、
そう感じている方もいるかもしれません。
うだつが上がらないこと、
毎日に面白味を全く感じないこと、
人のつながりに苦しんでいること、
受け入れられていないと感じること、
成果が出ないこと、
愛情を感じられないこと、
楽しめないこと、
やりがいが感じられないこと、
夢中になれないこと、
愛せないこと、
信じられないこと、
何もかもがよそよそしく感じられること、
…。
んん、
根拠は挙げればきりがありませんね。
きりがない根拠というのは、
根拠としては何だか
破綻している気もしますが…。
★
あなたが今のあなたを、
どう見て、
どう感じて、
どうなると思っているか、
それらは全て過去に蓄積された
経験則の『解釈』に依存しています。
自ら作り上げた、
私とは何か、
どういう人間か、
そして、どんなことが起こりえる存在か、
つまり、どんなことが自分に起こっても
不思議はなくて、
どんなことは馬鹿げた偶然と感じているか。
といったことを、『定義』に従って、
何か事が起こるたび、『解釈』します。
『解釈』の中には、
今回がそうだったから、
また同じことが起こるだろう、
というものもあって、
良くないことが起こった時に限って
『適用』されます。
『定義』も『解釈』も、皮膚感覚に宿るほどの、
大きな哀しい、残念な出来事の蓄積に対して、
今後同じことが起こっても、
自分がそれ以上ダメージを負わないように、
作り上げたものなので、
自分の人生を生きる上での
最善の安全策でもあるはずのものだから、
なかなか手放すことができません。
これは、『安全策』ではあるかもしれませんが、
同時に、その出来事が起こること自体を
日常とすることを前提としているので、
実際に、
それが起こることが当たり前の環境が
日常になるし、
それが起こらない時には、起こるような
無意識の行動や判断を積み重ねて、
結果、『安全策』を発動させるに至ります。
何より、
自分がその『定義』に従って、
ことあるごとに『解釈』を施している、
というルーティーンは、
長年の生き方、生き様になっているので、
俯瞰してみないと“実感を持って”気づくことが
できません。
ここまで来ると、
苦しいこと、辛いことがあったから、
それに苦しまないようにする方法として、
苦しいこと、辛いことが起きても
いいようにした上で、
あらかじめそれらが起こる状況まで
用意しているという、
何だか本来の願いとずれた状態を
自ら作り上げていることになります。
そんなこと、つまり本来無関係というか
遠ざけてしまえればよいものを
身近に想定し続けるうちに、
それが起こった時のショックに
耐えうるように、
本来遠ざけてはならない、
大切な自分の一部が遠ざけられ、
無視され、時には壊死しかかってしまいます。
まれにこのこと、つまり、
自分が自分で自分を良くない方へ
ひたすら追い込んでいることに気づいても、
そしてそれを変えられるのは自分だけだと
分かっていても、
『定義』『解釈』を変えようと躍起になって、
理屈をひねっても、思考を巡らしても、
なかなか変わらない。。。
なぜなら前述のとおり、『定義』も『解釈』も
皮膚感覚に宿った哀しさや辛さをもとに
作り上げたものであるにもかかわらず、
その臨場性を自らの感覚に宿したまま、
何とかしようとするからです。
★
あなたは今、何とか生きておられる。
もしかすると不自由な部分があるかも
しれませんが、
それでも、拙ブログを見て、
何某かのより良く生きるヒントを
探しているのだと思います。
生きていて、
苦しんでいて、
そして、何かを望んでおられる。
そこにこそ、
現状を変えるヒントがあるのだと思います。。
『解釈』の結果もたらされる
その苦しみ、
その哀しみ、
その辛さ、
なぜそう感じるようになったのでしょう。
いつからそう感じるようになったのでしょう。
きっかけは何だったのでしょう。
会社で、恋愛で、人付き合いで、
類似の出来事があるたびに、
その感覚を強化するように生み出した『定義』は、
きっと1度や2度の過去で
作り上げられたものではないでしょう。
特定の極端な出来事はあったにしても、
実際には記憶に残っていないような、
些細なことが積み重なり、
ある種の必然性を伴って
出来上がってしまったのかもしれません。
そしてその無数の積み重なりに焦点を当て、
忌み嫌い、腹を立て、卑下しているのが、
あなたの“過去”になってしまっている。
もう一度。
生きていて、
苦しんでいて、
そして、何かを望んでおられる。
それ自体が、ヒントです、といいました。
何と比較してそう感じているのでしょう。
そう感じてはいなかった自分を
知っているからこそ、
そう感じているのではないでしょうか。
そう感じてはいなかった過去とは
どんな過去でしょうか。
公平に、フェアに、オープンに、
思いだしてみてください。
今が辛く苦しいとき、
それが自分の生い立ちに結びつくと、
どうしても過去を否定したくなります。
辛く苦しい部分にばかり焦点を当て、
「だからもう何もかも終わりだ」などと
やってしまうからです。
そうすると、
手っ取り早いし、誰かを責められるし、
自分が何とかするしかないという現実を
見なくて済むと勘違いできます。
でも、それはフェアじゃないし、
そんな見方自体がそもそもフェイクです。
一度気づいてしまうと馬鹿らしくて
やってられなくなるほど、
偏った考え方です。
今生きているということは、
何某かのエネルギーを得られる、
静かな感動や素の存在感、一緒の誰か、
そんないくつもの“勇気の素”が
あったのではないでしょうか。
それらがあなた自身を肯定してくれていて、
それが気づかないまま、
あなたを支えているかもしれません。
あなた自身を肯定するということは、
あからさまな言葉や態度や、
他の誰かからの施しなどより、
あなた自身が当たり前にそこにいたこと、
あなた自身が当たり前に感じていたこと、
それらをもう一度内在化することです。
何度か書きましたが、誰にもそんなシーンが
あると思います。
あなたにもきっと。
夏の休日の朝食後のほっとした時間、
電話をする母親の笑い声、
ドタバタと家の中を走る小さな弟の足音、
冬の夕暮れの街の向こうに沈む夕日、
風呂につかりながら耳にした木枯らしが吹き抜ける音
転寝する横にいた両親の存在。
当たり前の肯定感を内在化するのは、
一朝一夕で蘇らせられるとは限りませんが、
それが根付いてくると、
過去を否定的に感じなくなります。
それは当然で、
辛く哀しかった出来事とばかりと思っていた
過去のすぐ横には、
同じくらいの幸せ、少なくとも、
自分が自分としていられた記憶が
見守ってくれていることに気づくからです。
必然的に、今問題と感じている
出来事の幾つかは、
たいしたことではなくなります。
決して放置しておけばよい、
ということではなく、
駄目だと思ったら
さっさと不要にできる生き方を
選択するようになるのです。
そう、選択するようになるのです。
理屈よりも、選択できることであり、
自分が主体的に選択すればいいことだと
直感的に感じるようになる。
そうなるともう、
自分という存在がここにいるということが
素直に受け入れられるようになるでしょう。
自分がこの世に当たり前にいることの
ありがたさ、素敵さ、素晴らしさ。
本当は誰よりも、
自分自身がわかってあげられることなんです。
ー今回の表紙画像ー
『真夏の空に秋の気配?』
雲だけ見れば、ほんのわずかに秋の気配が。でも暑い。。。
今年2回目のハゼ釣りへ。今年はやたらチンチン(クロダイの子供)が多いな。
というわけで、南蛮漬けで一杯。んまーい。
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