過去を見つめなおすことは新しい未来と出会うことだ

日々の棚卸

 

2日続けて同じような題材ですいません。

切に思うことなので、どうしても形を変えて

書きたかったのです。

 

過去ばかり見ていても、

未来は変わらないということが

あちこちで言われています。

過去“ばかり”ということの程度が

どのくらいを指すのかわかりませんが、

私はこの言葉がしっくりきません。

くよくよしてないでこれからを考えよう、

というのはあると思います。

今起こっている哀しい出来事、

ちょっとした悔しいことにとらわれて、

せっかくの人生を楽しめないというのは、

もったいないし、

ちょっとした気力を出すことで、

切り替えられることはあるかもしれません。

まめに掃除をしない身で何ですが、

一心不乱に部屋の隅々まで掃除をして

塵や埃や汚れを取り除き、

同時に怒りや悲しみを吐き出す、

というのもある意味賛成です。

 

でも、

そうやろうとしても、

とてもとても気力なんて出てこないし、

いつも過去の出来事や記憶に襲われて、

日々自分の気持ちが落ち着かず、

集中できず、

かといって、

のんべんだらりと生きられるほど

リラックスもできずにいる人もまた

少なくありません。

 

私もまた、

そんな人生を歩んできた一人であることは

これまでにも述べてきた通りです。

やってみた、けれどもどうしてもできない、

ということで、

当時の私には、少なくとも無理でした。

家族がバラバラになったと知った時は、

無言のまま体が内側から崩壊していくように

力が抜けていき、

感情は錯乱に近い状態でした。

心の状態も体の状態も

とてもそのままでは耐えられず、

これ以上放置しておいたら

おかしくなってしまう、と

対処方法をあちこちに探し求めました。

どうしようもなくなって

精神科医や心理カウンセラーの

お世話になっただけでなく、

少しでも関係のある本や人の話を収集し、

果ては自己啓発セミナーにまで通ったり

ということをずいぶんしたものです。

その中には、血肉に変わるほど

ためになることもあったし、

よくもまあ、こんなことで…、

という催し物もありました。

いずれにしても、

ほんとにあちこち駆けずり回り

探し求めたことだけは

間違いありません。

 

実際、

心理カウンセリングの手法、

セラピーのセオリー、

心理療法のテクニックとロジック。

多くの人がいろんなことを言っていて、

ずいぶん昔、

それらの一つ一つの理解に

努めた時期があります。

わかったこともあったし、

わからなかったこともありました。

納得できたこともあったし、

おかしいと思ったこともありました。

 

時々、

うまくいかないんだから

言われたようにやってみろよ、

という専門家なる方がいますが、

そうしたくない何かを感じているからこそ、

自分の考えにこだわるということも

あるでしょう。

そういうわけで、

私が考えた進め方を強要するつもりは

毛頭ありませんし、

そんな力ももちろんありません。

 

ただ、

“今”のことにせよ、

“未来”のことにせよ、

もう少し砕いて言うと

仕事や勉強やスポーツなど

今に集中するということだけでなく、

夫婦関係や子供の問題や仕事など、

二進も三進もいかなくなっている問題に

対処すること、

希望を追い求めること、

あるいは見つけることは、

力んで、

悩んで、

気合をかまして、

学んだ理屈をこねくり回して、

公式を解けば、

解が得られるものではありません。

いえ、一時(いっとき)

そういう時間は必要かもしれませんが、

どこかで必ず、

その“知”というか“理”に

すがろうとする自分の外に出ることが

必要になるときがきます。

それは、

混乱している自分を抱えながらも、

深呼吸するように、

ほんのかすかな時間でも静けさを求め、

正しいかどうかも

世の中の指標も

当座の願いも

とりあえず脇に置いて、

自分の過去としっかり対峙し、

受け止め、

抱きしめることでつながって、

初めて見えてくるものです。

今ここ、と言われて久しいけれど、

今ここ、は力づくで行えるものじゃない。

というより、

力づくで行ってしまえば

ますます自分が歪んでしまう。

 

それはそうですよね。

襲ってくる過去、

付きまとう過去、

“今”に影響する過去、

そんな過去に対して、

まだやれること、

やっておくべきことがあるのに

それを無視して

“今”にこだわっていれば

ある部分を盾にして

襲ってくる感覚を遮るしかありません。

それが小さければいいけれど、

それができないのに

無理やり遮ろうとしても、

それこそ無理がある。

今ここ、は

等身大の自分を受け入れた時、

ではなく、

受け入れることを決めた時、

受け入れていいと感じた時に、

発揮する感覚です。

発揮させる、というより

湧き上がってくるものなのです。

 

同じように、

未来というものは、

自分を無視して得られるものじゃない。

自分が生きてきた道のりと

自分が得てきた感覚とを

拠り所にして、

信じて、

そことつながる想いの中に、

見出すものだと思います。

過去が、

苦しかった?

惨めだった?

怒ってばかりだった?

クズのような人生だった?

くだらなかった?

ひどい扱われようだった?

 

“素晴らしい”

これほど、

未来へつなげる過去がそろっている

ことはそうそうありません。

自分を苦しめ、貶める感覚は、

それをどこかで生きる力に変化するとき

新しい未来の一つの候補と

なりえないでしょうか。

 

覚えておいてほしいのは、

あなたの答えも未来も

あなたの中にあって、

それを自分で認識しあぐねている

可能性があるということです。

焦って、

未来を、変化を求める前に、

しっかり過去と対峙してみてください。

過去の認識と抱擁、そして今の修正

この2つは

より良い未来を見出す上で

1セットです。

 

ー今回の表紙画像ー

『家の前の道路より空を見上げる』

昨日の空。もう少しかな。